Zoomの接続が完了するまでの数秒が、やけに長く感じられた。
画面に現れたのは、いつも通りのフクロウのアバター──“W.Navi”。
ゆっくりとした揺れを繰り返すだけの簡素なアニメーション。だが、そこに確かに「誰か」がいる気配があった。
「……こんばんは。ハチノヘです」
現れたのは、五十代半ばの刑事、八戸幸樹(はちのへこうき)だった。
くたびれたスーツの肩を落とし、目の下には深いクマがのぞいている。
低く落ち着いた声だが、その奥に張りついた疲れを隠しきれていなかった。
「先生とは、これまで何度か……まあ、捜査で袋小路にはまったときなんかに、ヒントをいただいたことがありましたが」
少し苦笑いを浮かべる。
「こうして“自分のこと”を話すのは初めてかもしれません」
「どうぞ、ご自由にお話しください」
落ち着いた声が返る。張ってもいない、沈んでもいない。ただ静かに受け止めるような声音。
ハチノヘはひとつ息を吐き、言葉を探すように口を開いた。
「悩み……というより、胸に残っている“後味”みたいなもんです」
アバターは揺れているだけで何も言わない。その沈黙が、逆に促すようでもあった。
「昔、担当した少年がいましてね。暴力やら窃盗やらで補導した。このままじゃ駄目になると思ったから、ずっと気にかけてきたんです。出所してからも、仕事を世話したり、飯を奢ったり……正直、刑事の職務を超えてました」
言葉を切り、わずかに目を伏せる。
「その甲斐あってか、数年後には真面目に働くようになった。……それ自体は、本当に嬉しかったんです」
そこで、ハチノヘは小さく笑った。だがその笑みには影があった。
「けどある日、ぷっつりと連絡が途絶えた。振り返りもせず、こっちに背中を向けたまま……二度と会えなかった」
わずかな沈黙が流れる。
「……去っていく背中ってのは、効きますよ」
「“もういいです”とでも言いたげでね」
指先で机を軽く叩きながら、ハチノヘは苦く笑った。
「分かってるんです。俺のやってたことはお節介だって。あいつにとっちゃ、恩義じゃなくて重荷だったのかもしれない」
「ひょっとすると、ただの自己満足だったのかもしれませんね」
画面の向こうでフクロウが静かに揺れる。
「でも……放っとけなかったんです。そういう人間、世の中にたまにいるでしょう?」
「……いますね」
短い相槌が、妙に重く響いた。

ハチノヘはふっと肩を落とす。
「ただ……そういう人間にとって、“背中を見送る”ってのは一番こたえるんですよ」
フクロウのアバターは相変わらず、ただ揺れている。
それ以上は何も言わない。ただ受け止めるように沈黙を保つ。
ハチノヘは視線を伏せ、口を閉じた。
画面越しの静けさだけが、じんわりと二人の間に広がっていた。
ハチノヘの吐息が静かに部屋の空気に溶けていった。
フクロウのアバターはゆっくりと揺れている。
しばらく沈黙が続いたのち、和波知良(わなみかずよし)がぽつりと口を開いた。
「……お節介、ですか」
ハチノヘがわずかに眉を動かす。
「私も、そうでした。放っておけない。関わらずにはいられない。……そして、結局、背中を見送ることになった」
いつもなら短い相槌だけのワナミが、自ら語り出すのは珍しかった。
ハチノヘは黙って画面を見つめる。
刑事の眼差しが、今度は聞き役のそれに変わっていた。
ワナミの声は、淡々と、しかしどこか遠い記憶をなぞるように続く。
「かつて、教え子がいました。努力していたのに、望んだ大学には届かなかった。結果を告げられたあと、彼は私に背を向け、振り返らずに去っていきました」
ふと、古傷の疼きを指先でなぞる。
相手には見えない痛みを、ひとりだけで確かめるように。
「……その夜、私は動揺したまま街を歩き、車に撥ねられました。命は助かりましたが、足には今も古傷が残っています。遠出はできない。だから今も、こうして部屋の中で暮らしている」
ハチノヘは思わず息を呑む。
ワナミは、ほんの少しだけ声を低める。
「それでも、いまは思うんです。あの背中に私の影が映っていなくても、支えた時間は確かにあった。それが自己満足でもいい。……満足の“自己”に、救われることもあるのだと」
ハチノヘはゆっくりと頷き、かすかに笑った。
「……先生、俺は相談してるつもりだったんですがね。なんだか今日は、俺が聞き役になってる気がしますよ。捜査でヒントをもらってた頃とは、ずいぶん立場が逆になったな」
ワナミも、わずかに笑みを返す。
「そういう夜も、あるものです」
「……俺が相談してるつもりだったのに、気づけば先生の昔話を聞かされてる。妙な夜だな」
「そうですね。……普段はあまり話さないんですが、つい」
「“つい”、か」
「お節介な性分は、あなただけではないようですね」
二人の間に、どこか温かな沈黙が流れた。
ハチノヘは深く息を吐き、静かに告げる。
「少し、軽くなりました。……背中を見送るのも、悪くはないのかもしれんな」
Zoomが切れ、フクロウのアバターが静かにフェードアウトする。
ワナミの部屋。
カップを持ち上げるとき、わずかに足をかばう仕草。
紅茶を一口啜り、窓の外の街灯を見やる。
「……お節介も、悪くない、か」
湯気が静かに立ちのぼり、やがて夜の空気に溶けていった。
──了──