「2年生の山根君の父兄から、クレームが入りました」
関東学力増進機構・塾長室。
昼下がりの静寂を打ち破るように、総務の東山(ひがしやま)が封筒を机に置いた。
「これが書面です」
ヒガシヤマは読み上げる。
「“大学進学を志望していた息子が、御校の講師の影響で『大学なんか行かなくても資格を取れば人生なんとかなる』と言い始めた。どう責任を取ってくれるのか”──以上です」
カンゾウ(関東学力増進機構)の塾長・島田巧(しまだたくみ)は、黙って封筒を見つめた。
しばし沈黙ののち、低く呟く。
「……誰や。あんな結び昆布みたいな奴を入れたんは」
「は……?」
「噛みごたえゼロ。出汁だけ吸って、噛んでも味せんやつや。ヤギヌマやろ。多資格講師」
そう、八木沼明秀(やぎぬまあきひで)。
日本史・世界史・地理・倫理・政経……社会科を一通り「広く浅く」担当している男。
年齢、58歳。タクミより年上の中高年講師。
履歴書には、ところせましと並ぶ資格名。
「食品衛生責任者、防火管理者(乙種)、防災管理者、整理収納アドバイザー3級、アロマテラピー検定2級、世界遺産検定4級、温泉ソムリエ、ねこ検定初級、日本さかな検定、Microsoft Office Specialist……」
しかし、宅建・簿記・英検準一級、TOEICや司法試験など、「ガチ勉強」を要する系は一切なし。
資格の山。中身はスカスカ。
まさに“ちくわぶの穴よりも中身が広い”男だった。
その日の日本史の授業。
「信玄といえば“隠し湯”ってあるんですよね、甲府のあたりに……」
戦国時代の章に入ったところだった。
「でね、実は私、温泉ソムリエの資格も持ってまして。温泉ってのはですね、pH値が……」
ノートを取る生徒たちが顔を上げる。
(え、これってテストに出るの?)
「──ちなみに、検定は1日講習で取れます。あと、温泉の効能を学ぶことでね、実はアロマ検定にも応用が……」
話はズルズルと脱線。
板書が「武田信玄」から一向に進まず、ホワイトボードの右端には「ねこ検定(初級)」と書かれていた。
──この人、本当に予備校講師なんだろうか?

その日の夜、塾長室。
ヤギヌマ、呼び出される。
「失礼します。ヤギヌマです」
「お前、最近授業で何しゃべっとんねん」
「ええと……“とりあえず資格を10個取れば、将来どうとでもなる”って話を少々──あの、私の人生経験から申し上げて」
「誰がそれ聞きたい言うた? 受験生やぞ。戦(いくさ)の前や。そいつらの“武器”はなにや?」
「……え、あ、学力……?」
「そうや。“資格”ちゃう。“受験生”の武器は“学力”や。“資格”のマウンティングで心折ってどうすんねん。資格が武器になるんは、戦場に出てからや。お前、戦場に出る前に『俺はアーク溶接できます』言うて、砂漠で油田掘るんか? なあ?」
ヤギヌマ、言葉に詰まる。
「しかも、お前、授業で“医者は医師免許しか持ってない。僕の方が資格の数では上”言うたらしいな?」
「……いや、それはですね、資格を取る意欲が──」
バシュッ。
タクミの右手が、机に置いてあった「お〜いお茶」のペットボトルを強く握りしめた。
ミシリと音を立て、ペットボトルが潰れる。
中の緑茶が飛び散り、キャップが弾け飛ぶ。
コッ!
ヤギヌマの額に命中した。
キャップが当たった音は、妙に乾いた音を立てて室内に響いた。
「……いったッ」
「“戦”から逃げとる奴が、“資格”で悦に入ってどないすんねん。戦う気もないのに、武器ばっか並べて満足してる奴に、受験生の人生を語る資格は、ないわ」
「島田先生、暴力は──」
「暴力? ちゃうちゃう。お茶のキャップが物理法則に従って“飛んだだけ”や。ニュートンも驚く反作用の法則やな」
ヤギヌマは、立ったまま気まずそうに目をそらしていた。
だが、タクミの“追い打ち”は止まらない。
「……アンタな、もうすぐ還暦やろ。今まで何して生きてきたんや?」
「…………」
「せっかく年重ねてきたのに、中身スカスカや。ちくわぶの穴の中に風が吹いとる。冷めたおでんの具や」
「いや、でも私はですね……色々な知識を伝えたくて……」
「“伝えたい”と“押し付ける”は違うんや。お前は、自分の不安をごまかすために、資格の数で若者にマウント取ってるだけやろ。そいつは“教育”やない。“延命”や」
ヤギヌマは何かを言おうとするが言葉が出てこない。
「結局な、資格よりも人格や。どんな資格持っとっても、人間として薄っぺらかったら信用されへん。受験生は肩書きやのうて、“人”を見てるんや。」
完全に沈黙するヤギヌマ。
「明日から来んでええ。資格の数、数えながら余生を過ごしてくれ。アロマでも焚きながらな」
数日後、カンゾウの教務フロア。
ヒガシヤマがタクミに尋ねる。
「……で、その後、ヤギヌマ先生はどうしたんですか?」
「辞めた。本人は“資格関連の講演活動に注力する”とか言ってたけどな」
「また“資格コレクター”やる気なんですかね?」
社員たちの間に、どこか苦笑が混じった空気が流れる。
だが、タクミはどこか遠くを見るような目で、缶コーヒーを机に置いた。
「……まあ、でも、なりたかったんやろ。“先生”に」
「え?」
「“講師”やない。“先生”。肩書きのある人間になって、誰かに必要とされたかったんや。だから資格っていう“名刺”をいっぱい集めて……ほんまは、“中身のある自分”が欲しかったんかもな」
一瞬だけ、空気が静まる。
「ま、受験生に迷惑かけたら終了やけどな。おでんのちくわぶは黙って汁吸ってりゃええんや。しゃしゃり出てきて熱燗に文句つけるから、ハネられるんや」
タクミは、ヤギヌマが残した荷物の整理を社員に指示しながら、ふと思い出したように言った。
「で、あのヤギヌマ、最後に何か言うて帰ったか?」
他の社員が答える。
「いえ……何も言わずに、静かにエレベーター乗って帰りました。挨拶もなしです」
「そうか。……まあ、そんなもんやろな」
「資格、あれだけ持ってるのに」
タクミは、机の引き出しを開けると、そこに残されていた“履歴書”のコピーを手に取った。あの、資格欄が2ページ目にはみ出していた履歴書だ。
「なあ……資格って、持ってるだけで偉いんか?」
社員たちが黙る。
「資格ってな、武器や。武器はな、戦場で使って初めて意味がある。戦う気のない奴が、武器だけ揃えて悦に入ってる姿はな、あれや、サバゲー好きのオッサンや。迷彩服着てコンビニ行くようなもんや。滑稽やろ?」
タクミはそう言って、クシャクシャになったペットボトルのキャップをもう一度見つめた。
「次、誰や。講師候補」
社員がそっと新しい履歴書を差し出す。
「次は、元・学生運動家で現在はNPOで人形劇をやっているという自称演出家です」
「うわ、また濃そうやな。……まあええ。どうせウチの塾は“劇場”や。出てくる奴はみんな“役者”や。ワシも含めてな」
タクミは、破れかけた履歴書を笑いながらゴミ箱に放った。
「はい、次の主役、出番や」
第2話につづく