第9話からのつづき
春は、静かに過ぎていった。
合格発表の掲示板の前に、ハルカの名前はなかった。
スマホを何度更新しても、結果は変わらなかった。
滑り止めの私大すら受けていない。
──落ちた。
「浪人か……」
呟いた声は、まるで他人事のようだった。
理由は、いくつかあった。
ひとつは、学費。
「ウチは私立はムリだからね」という母の言葉。
奨学金で行けるかもしれないが、背負いたくなかった。
もうひとつは──塾長・島田の言葉。
「お前、東大、狙ってみろよ。女子で行けたらカッコいいぞ?」
その一言が、ハルカの心に火を点けた。
もともと負けず嫌いだった。
どこかで「見返してやりたい」という気持ちもあった。
そしてもうひとつ、見えない欲があった。
「東大」という名の、勲章。
──あの人に、褒めてもらえるかもしれない。
けれど、現実はそんなに甘くなかった。
模試の判定はずっとE判定だった。
それでも──どこかで、「自分は大丈夫」と思っていた。
……根拠のない自信だった。
浪人生活が始まった。
でも、春期講習には行かなかった。
母は「どうするの?」と聞いてきたが、ハルカは「考え中」とだけ答えた。
本当は、考えることすら億劫だった。
──何が正解だったのか、もうわからない。
気がつけば、机の上には、島田にもらった名刺が置いてあった。
「お守り代わりに」と言ってくれた、あのカード。
ハルカは、それをじっと見つめた。
やがて、そっと名刺を引き出しの中にしまった。
「……一旦、忘れよう」
そう呟いた声は、かすかに震えていた。
その夜、夕飯の代わりに、コンビニで買ったおでんを食べた。
大根と、卵と──ちくわぶ。
昔から、ちくわぶが好きだった。
誰にも言ったことはないけど、あのモチモチ感がたまらない。
「西の人間はちくわぶ食べないって言うけど……」
そう言って笑いかける相手は、もう、そばにいない。
──ただ、静かに、部屋の空気とちくわぶの味が、染みていく。
結局、塾にも、予備校にも通わなかった。
春も、夏も、秋も、ただ家にいた。
最初のうちは参考書を開こうとした。
けれど、やる気はすぐにしぼんでいった。
カンゾウには戻らなかった。
合格発表のあと、「落ちました」とだけ報告に行った。
あの人に会うのが怖くて、目も見られなかった。
「来年は受かるぞ。もう一年、カンゾウで頑張れよ」
そう言って引き留められたけど、「考えます」とだけ言って、ドアを閉めた。
最初の一週間は、ちゃんと起きていた。
朝の9時にアラームをかけ、昨日の復習をして、英語の長文を解く。
コンビニで昼食を買い、午後は古文の文法と現代文の過去問。
夜は、チューターから勧められた参考書を見返す。
けれど、そんな日々は──二週間ともたなかった。
起きる時間が少しずつ遅くなり、ノートを開く前にスマホを触る時間が長くなり、いつの間にか、午前中は寝ているのが普通になった。
母は、最初こそ何も言わなかったが、ある晩ぽつりと口を開いた。
「……あんた、予備校どうするの?」
「今はまだ、様子見。独学でいけると思うし」
「そう」
──その一言で、会話は終わった。
浪人という言葉は、春のうちはまだ“言い訳”になった。
「いまは勉強に集中してるから」
「予備校は秋からでも遅くないし」
「現役の時より気持ちが落ち着いてる」
──でも、夏が近づく頃には、それも空々しく聞こえるようになっていた。
その後は、ほぼ何もしていない一年。
ただ、時間だけが過ぎていった。
ぽっかりと、心に穴が空いたまま、そのまま、一年が終わった。
母には言われた。
「もう受験する気がないなら、専門学校でも行って。働く気もないなら、うちに置いておく余裕なんてないからね」
「……わかった。考えさせて」
そう答えたまま、気がつけば2年目の春を迎えていた。
何も変わらない日々だった。
寝て、起きて、スマホを見て、太宰を読んで──
『人間失格』を読み返すたび、どこか自分を重ねている気がした。
食事の時間だけが、現実を引き戻す。
あとは、どこまでも曖昧で、静かな時間だった。
第11話へつづく