第10話:滑り落ちた春

第9話からのつづき

春は、静かに過ぎていった。

合格発表の掲示板の前に、ハルカの名前はなかった。

スマホを何度更新しても、結果は変わらなかった。

滑り止めの私大すら受けていない。
──落ちた。

「浪人か……」

呟いた声は、まるで他人事のようだった。

理由は、いくつかあった。

ひとつは、学費。

「ウチは私立はムリだからね」という母の言葉。
奨学金で行けるかもしれないが、背負いたくなかった。

もうひとつは──塾長・島田の言葉。

「お前、東大、狙ってみろよ。女子で行けたらカッコいいぞ?」

その一言が、ハルカの心に火を点けた。

もともと負けず嫌いだった。
どこかで「見返してやりたい」という気持ちもあった。

そしてもうひとつ、見えない欲があった。
「東大」という名の、勲章。

──あの人に、褒めてもらえるかもしれない。
けれど、現実はそんなに甘くなかった。

模試の判定はずっとE判定だった。

それでも──どこかで、「自分は大丈夫」と思っていた。
……根拠のない自信だった。

浪人生活が始まった。
でも、春期講習には行かなかった。

母は「どうするの?」と聞いてきたが、ハルカは「考え中」とだけ答えた。
本当は、考えることすら億劫だった。

──何が正解だったのか、もうわからない。

気がつけば、机の上には、島田にもらった名刺が置いてあった。

「お守り代わりに」と言ってくれた、あのカード。

ハルカは、それをじっと見つめた。

やがて、そっと名刺を引き出しの中にしまった。

「……一旦、忘れよう」

そう呟いた声は、かすかに震えていた。

その夜、夕飯の代わりに、コンビニで買ったおでんを食べた。

大根と、卵と──ちくわぶ。
昔から、ちくわぶが好きだった。
誰にも言ったことはないけど、あのモチモチ感がたまらない。

「西の人間はちくわぶ食べないって言うけど……」

そう言って笑いかける相手は、もう、そばにいない。

──ただ、静かに、部屋の空気とちくわぶの味が、染みていく。

結局、塾にも、予備校にも通わなかった。
春も、夏も、秋も、ただ家にいた。

最初のうちは参考書を開こうとした。
けれど、やる気はすぐにしぼんでいった。

カンゾウには戻らなかった。

合格発表のあと、「落ちました」とだけ報告に行った。

あの人に会うのが怖くて、目も見られなかった。

「来年は受かるぞ。もう一年、カンゾウで頑張れよ」
そう言って引き留められたけど、「考えます」とだけ言って、ドアを閉めた。

最初の一週間は、ちゃんと起きていた。
朝の9時にアラームをかけ、昨日の復習をして、英語の長文を解く。

コンビニで昼食を買い、午後は古文の文法と現代文の過去問。

夜は、チューターから勧められた参考書を見返す。

けれど、そんな日々は──二週間ともたなかった。

起きる時間が少しずつ遅くなり、ノートを開く前にスマホを触る時間が長くなり、いつの間にか、午前中は寝ているのが普通になった。

母は、最初こそ何も言わなかったが、ある晩ぽつりと口を開いた。

「……あんた、予備校どうするの?」

「今はまだ、様子見。独学でいけると思うし」

「そう」

──その一言で、会話は終わった。

浪人という言葉は、春のうちはまだ“言い訳”になった。

「いまは勉強に集中してるから」

「予備校は秋からでも遅くないし」

「現役の時より気持ちが落ち着いてる」

──でも、夏が近づく頃には、それも空々しく聞こえるようになっていた。

その後は、ほぼ何もしていない一年。
ただ、時間だけが過ぎていった。

ぽっかりと、心に穴が空いたまま、そのまま、一年が終わった。

母には言われた。

「もう受験する気がないなら、専門学校でも行って。働く気もないなら、うちに置いておく余裕なんてないからね」

「……わかった。考えさせて」

そう答えたまま、気がつけば2年目の春を迎えていた。

何も変わらない日々だった。

寝て、起きて、スマホを見て、太宰を読んで──

『人間失格』を読み返すたび、どこか自分を重ねている気がした。

食事の時間だけが、現実を引き戻す。
あとは、どこまでも曖昧で、静かな時間だった。

第11話へつづく