第11話からのつづき
その夜、新宿は風が強かった。
東宝ビルの巨大なゴジラヘッドが、街の明るさとは裏腹に、不気味に浮かび上がっていた。
「……ここが、トー横」
正確には、“新宿東宝ビルの横”。
略して“トー横”。
ビルと駐車場の隙間にある細い通路。
通称“トー横通り”は、都内のどこよりも人目につきにくく、行き場を失った若者たちが自然と流れつく、都市の「すき間」だった。
その場にいる全員が、どこか他人の顔をしていた。
フードを被る子、イヤホンで外界を遮断する子、地べたに座り込む子。
笑っているようで、目が笑っていない。
ハルカは、その空気に馴染むのに、5分とかからなかった。
「お姉さん、初めて? おでん、食べる?」
使い捨て容器に入ったおでんが差し出された。
具は、ちくわ、がんも、大根、そして、ちくわぶ。
「……ちくわぶだ」
そう呟いた瞬間、何かが切れた。
この世界では、学歴も制服も、偏差値もいらない。
スマホさえあれば誰かとつながれる。
DMを送れば、奢ってくれる大人がいる。
泊まる場所がなければ、カラオケかサウナ。
深夜の街は、全部が「選択肢」だった。
「え、ハルカちゃんって高卒? じゃ、まだ若いじゃん」
「てか、肌きれい。え、リップなに使ってんの?」
周りの女子に囲まれ、スマホを見せ合い、写真を撮り、一瞬だけ、自分が「価値のある存在」に思えた。
「彼氏いるの?」
「いないよ、つか、いたことないし」
「えー! 信じらんない。うちらなんて、3人と同時とか普通だよ?」
その言葉に、ハルカは驚かなかった。
むしろ、自分はまだ甘かったとさえ思った。
──もっと、強くならなきゃ。
その夜、歌舞伎町の裏路地のコンビニ前で、年上の男からペットボトルのお茶と、交通費と称した現金を受け取った。
「ありがとう。優しいね」
笑って言った自分の声が、少しだけ他人のものに聞こえた。
帰りの電車、車窓に映る顔はまだ“自分”だった。
でも、心のどこかで、もう“元の自分”には戻れない予感がしていた。
──ここは、下に落ちることに「慣れていく場所」だ。
誰かが言っていた。
「トー横ってのは、魔法みたいなもんなんだよ」
魔法。そうかもしれない。
努力とか希望とか、そんなもんじゃどうにもならない現実を、一時的にでも“消してくれる”魔法。
けれど魔法は、いつか解ける。
それがわかっていても、ハルカはその夜、再び東宝ビルの横に戻った。
まだ何者にもなれない自分が、せめて誰かの“何か”になれる場所を、探すために──
第13話へつづく