第15話からのつづき
新宿・歌舞伎町。
夜の雑踏に、光と音と酔いが混ざり合っていた。
ハルカは、TOHOシネマズの前を通り過ぎ、職安通り方面へと歩いていた。
このあたりには、“トー横”と呼ばれている場所がある。
ほんの少し前のこと。
夜の風と自販機の光に頼っていた時期があった。
まだ、みんなはいるのかな?
と、自分の足元を見つめていたとき──
酔っ払ったような、でも聞き覚えのある声がした。
顔を上げると、妙に身体の大きな中年男いた。
島田タクミ。
ハルカは思い切って声をかけてみた。
「あの……、覚えてませんか?」
「え?」
彼はハルカを覚えていなかった。
まじまじと顔を見ながらも、記憶にたどり着く様子はない。
ハルカは微笑んだ。かつてと同じように、控えめに。
そして、それが彼の“記憶の外側”にいることの証明のようで──心の奥が少しだけ軋んだ。
「オレはこういう者だが、以前会ったことあったかな?」
タクミは名誉総長と書かれた名刺を彼女に渡す。
メディカルデラックス・名誉総長
──名誉総長。
その肩書きは、知らなかった。
最後に会ったとき、彼はまだカンゾウにいた。
カンゾウにいるときの島田は「塾長」と呼ばれていた。
「へぇ、エラい人なんですねぇ」
「ふっ、まあな」
島田はハルカに言う。
「なあ、ちょっとだけ休んでいこうよ。今日はついてなくてさあ。景気づけに」
──それは、あの頃聞いた“説教”とはまるで違う、“疲れた大人の誘い”だった。
ハルカは頷いた。
ホテル街の一角。
どこか色あせた外観のビジネスホテルに入る。
島田はロビーで部屋を取り、エレベーターに乗り込んだ。
部屋に入るなり、缶ビールを開けて、ソファに崩れ込む。
──私の記憶の中の、あの人じゃない。
それでも、ハルカはその夜、島田と一夜を共にした。
翌朝──
目を覚ましたタクミは、ベッドの隣のハルカの顔を見て、凍りついた。
「……お前……」
「おはようございます、先生。びっくりしました?昔はもっと髪、短かったですけど」
タクミの引き攣った顔には、“塾長”の威厳もなければ、“先生”としての鋭さもなかった。
ただ疲れ果てた中年男がアルコール臭い息を吐いているだけだった。
気まずい別れをした後、地元に戻ったハルカは数日間の間食事以外は部屋に篭ったままだった。
数日後、久しぶりにトー横へ顔を出そうと家を出たら、駅前のコンビニでかつてクラスメイトだった男子に声をかけられた。
「今年も浪人? じつは俺も」
「うん」
それだけ言って、缶のカフェオレを手に取った。
彼はすぐに話題を変えた。
「……あ、そういえば、あの予備校の塾長、なんかやらかしたらしいな」
「え?」
「ニュースでやってたよ。カンゾウが倒産したって」
頭の中が、一瞬だけ空白になる。
ハルカは言葉を返せなかった。
「お前も、変な大人に騙されんなよ」
──その一言が、やけに胸に引っかかった。
部屋に戻ったハルカは、先日トー横で島田からもらった名刺を取り出した。
金色のエンボス、クリーム色の厚紙。
「メディカルデラックス 名誉総長 島田巧」
そして机の引き出しから、もう1枚の名刺を取り出した。
カンゾウの時にもらったものだった。
スマホで検索してみた。
「島田巧 関東学力増進機構」
すると──検索結果のトップに現れたのは、カンゾウ元塾長・島田巧のスキャンダル
──経歴詐称・女子大生スキャンダルだった。
目が止まった。
“経歴詐称”?
“女子大生”?
あわてて、関連ニュースを次々にタップする。
・東大卒を名乗るも、卒業記録なし
・元教え子への「指導」を口実に不適切な接触
・倒産した前職・カンゾーでも金銭の不正が疑われ…
胸の奥がざわついていく。
──まさか、あの人が。
当時は、強引だったけど、熱意のある人だと思っていた。
塾長室で問題の解き方を教えてくれたあの日、「孤独」の比喩について語った彼の顔を、今でも覚えている。
でも──
「……やっぱり、そういう人だったんだ」
なぜか、胸が少しだけ苦しかった。
騙された、という感覚でもない。
でも、“あの言葉”が、どこか嘘に変わるようで。
「髪は黒いままの方が、似合うぞ」
あの言葉を言った人間が、その後、何人の女子生徒に同じことを言ったのだろう。
スマホを置いて、深く息をつく。
そのときだった。
動画のコメント欄に、ひとつの書き込みが入っていた。
ハルカさんの動画、すごく共感しました。
ところで、昔カンゾウに通ってたって本当ですか?
あそこ、元塾長がやばいってニュースになってて…。
もしかして、その頃いたんですか?
一気に、心臓の鼓動が速くなる。
言うべきか、黙っておくべきか。
けれど。
この名刺をもらったのも、この動画を始めたのも、すべて、過去と向き合うためだったはずだ。
“あの人”は、やっぱり、“そういう人”だったんだ。
──この名刺が、“証拠”になるかもしれない。
ハルカは静かにスマホを取り出し、自撮りモードで画角を確認する。
そして、ベッドの隣の名刺を、画面の中に収めながら──録画ボタンを押した。
その目は、どこか静かに澄んでいて──
でも、確かに“怒り”と“決意”があった。
あの人が覚えてなくても、私は、忘れてない。
第17話へつづく