第16話からのつづき
部屋に残された、たった一枚の名刺。
それが、すべての“引き金”だった。
──あの人は、私を忘れていた。
それが、悔しいとか、悲しいとか、そういう感情とは少し違っていた。
けれど、“忘れられる側”の痛みは、確かに残った。
島田タクミ。
昔、あんなに力強い言葉で私を導いた人。
でも今は──何も覚えていなかった。
「俺は東大卒だよ?」
そう笑って言ってたのに。
その“東大”もウソだった。
──なら。
「私の記憶」くらい、残していけばよかったのに。
その日の夜。
ハルカは、自室で撮った動画を静かに編集していた。
背景はシンプルなグレーの壁。メイクも整えず、照明も自然光だけ。
その素朴な空気が、逆に“リアル”さを強調していた。
サムネイルは──名刺の写真。
動画タイトルは、こう書いた。
《名誉総長と名乗るおじさんに再会した話》
「……こんにちは。ハルカです」
「今日はちょっと、いつもとは違う内容です」
「昔、通っていた予備校の先生に、偶然、夜の街で再会しました」
「そのとき、彼は私のことを覚えていませんでした。でも私は、今でもその人の言葉を覚えています」
「“髪は黒いままの方が似合う”って言ってくれたの、私は、たぶん人生で初めて、“認められた”気がしてたんです」
「……でも、彼にとっては、それが“誰にでも言ってたこと”だったのかもしれない」
「その人の名刺を、今でも持ってます。──この動画の最後に、その名刺の一部を載せます」
「これは、暴露でも、復讐でもなくて。“忘れられた側の記録”です」
動画の最後、数秒だけ名刺の一部が映る──
“メディカルデラックス 名誉総長 島田巧”そして、“関東学力増進機構 塾長 島田巧”という名前が、ぼやけたピントの中に浮かび上がる。
そして、再生ボタンを押す指が、ほんの少しだけ震えていた。
──投稿完了。
その後、ハルカはベッドに身を沈め、スマホを裏返しにして置いた。
……最初のコメントが付くまで、ほんの15分だった。
「え? この人、潰れた予備校の人だよね?」
「泣いた……忘れられる側って、こんなに苦しいのか」
──コメント通知が、止まらなかった。
翌朝、
#名誉総長
#ハルカちゃんねる
#カンゾウ元塾長
が、X(旧Twitter)のトレンド入りを果たしていた。
そして『週刊文潮』編集部の記者・ヤナギが、その動画に目を留めたのも、その日のことだった。
第18話へつづく