第19話からのつづき
夜の空気に、冬の匂いが混じる。
コートの襟を立てながら、駅前の雑踏を歩く彼女の姿は、どこか堂々としていた。
──広瀬春香、33歳。
いまでは、年商3億の教育系企業『spring』の代表取締役であり、人気予備校の塾長である。
最終学歴は、高卒。
学歴詐称は、一切なし。
名刺の肩書きは、「塾長」。ただそれだけ。
ケンブリッジも、東大も、そこにはいらない。
きっかけは、あの動画だった。
《元名誉総長と名乗るヤバいおじさんに出会った話》。
あの投稿が炎上し、話題になり、メディアが騒ぎ立て、本人が姿を消してから──
ハルカは、ただ前を見ていた。
教育系YouTuberとしての活動は、少しずつ信用を集め、そこから派生したオンライン家庭教師サービスは、高校生や保護者の間で口コミで広がった。
教材のクオリティ、先生の人柄、サポート体制。
それらが評価され、資金調達も順調に進み、会員は、2年で数千人を突破した。
そしてある日──
「思い出のあの場所を、買い取ったんですって?」
高田馬場の古びた雑居ビル。
かつて「関東学力増進機構」という予備校があった建物は、今やリノベーションされ、『spring本校』として再生していた。
看板には、こう書かれている。
「塾長 広瀬春香」と。
ケンブリッジの文字はない。
東大卒の嘘もない。
ただ、自分の名前だけが、静かにそこにある。
「……はぁ、今日も、面談と会議と撮影と……」
ハルカは塾内の講師控室で、ようやく一息ついていた。
「塾長、差し入れ置いときますねー!」
「ありがとう」
講師のひとりが、紙袋を置いていく。中をのぞくと──
コンビニで売られている「おでん」だった。
「久しぶりだな……」
コンビニのビニールを破り、割り箸を取り出す。
ふと目に入ったのは──ちくわぶ。
「……やっぱ、ちくわぶって、落ち着く」
誰に聞かせるでもない独り言。
だけど、心の底から出た本音だった。
あの頃、好きだと言えなかったもの。
馬鹿にされる気がして、声を潜めた好み。
いまではもう──堂々と好きと言える。
ちくわぶをひとくち噛む。
醤油とだしのしみたモチモチが、舌の奥にやさしく広がる。
スマホには、動画のコメントがまたひとつ増えていた。
「塾長、今日もありがとうございます。泣きそうになりました」
ハルカは、ほんの少しだけ目を細めて、笑った。
もう、「元」とか「被害者」とか、そういうラベルはいらない。
私は、私の人生を歩いてる。
もう、誰の言葉にもしがみつかない。
誰の肩書きにも、誰の背中にも、ついていかない。
私は、私のおでんで、誰かの人生をあたためたいだけ。
−完−
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