カンゾウと呼ばれる高田馬場にある中堅予備校「関東学力増進機構」。
このカンゾウにも、予備校にとっては最大の「稼ぎ時」、夏期講習シーズンがやってきた。
この時期になると講師たちの間では水面下での戦争が始まる。
「で? 今年も来ましたわよぉ、私のシーズンがぁ」
ドアを蹴るようにして入ってきたのは、国語科講師・西大路文枝(にしおおじふみえ)。
年齢、非公開。
服装はいつもヒョウ柄かビビッドな花柄。
生徒からは陰で「アメちゃん先生」「古文のオバチャン」「お経DJ」など、数々のあだ名で親しまれている、というか、恐れられている。
「は〜い皆さんっ!今日は伊勢物語、行くで〜!」
フミエの授業は、ライブである。
導入から派手な手拍子、ミラーボールはないが、テンションは歌舞伎町。
「“昔男ありけり”……これはなぁ、つまり昔っからどうしようもない男がおるって話や!」
(生徒:クスクス……)
「でもな、その“どうしようもない男”に女は惹かれてまうんやなぁ。はい、アナタ、それはなぜか?はい、そこの男子!ねえ、彼氏いる?いない?なんでなん!?彼氏が“昔男”やったんちゃうの?」
(生徒:笑い、でも若干引き気味)
「はい、今日もアメちゃん持ってきてるで〜! さっきのプリントで80点以上の子だけやけどなっ!あとキットカットもあるでぇ。ピキッと喝いれたるわよ!」
授業終了後、生徒たちは毎週同じような独り言をこぼす。
「やばい、またプリント10枚出された……」
「アメちゃん欲しいけど、問題多すぎて解く暇ない……」
「でもこれ全部やれば古文いけるかも」
そう。彼女は意外にも「結果を出す講師」だった。
だから、事務局も彼女を完全には止められない。
夏期講習の申し込みも、彼女の講座には生徒が群がる。
偏差値40の生徒も、東大志望の生徒も、なぜか彼女のプリントだけは捨てられずファイリングする。
だが、その裏では、このような声もあがる。
「またかよ……申し込み書に勝手に丸つけられた……」
「おい、俺の生徒が“物理より古文が大事”って洗脳されてる……!」
「“あの先生は理系のクセに冷たい顔してる”って言われた……」
講師陣からのクレームが、日に日に積み上がっていた。
「まぁね、人気者は妬まれるってことね」
フミエは、自らを“アイドル”だと信じて疑わない。
申し込み数が「30人」を超えると、事務員や受付嬢にはこう言うのだ。
「見て。私って、人気あるよね?」
その目は、どこか本気だった。
受講者数が彼女の“承認欲求の通帳残高”であり、満員御礼の教室はそのまま“私のファンクラブ”だった。
それでも、カンゾウは彼女を切れない。
なぜなら、生徒がついてくる。
そして、数字がついてくる。
だが。
「限界だろ、さすがに……」
水面下で不満を爆発させたのが、申し込み“ゼロ”の4人の講師だった。
「島田塾長に言いましょ。これはもう、“営業妨害”だって!」
その言葉に、講師たちはみな黙ってうなずいた。
その頃、塾長・島田タクミは──。
コンビニのおでんの結び昆布をつまみながら、空を見ていた。
「暑いのう……おでん食うてるやつ、オレぐらいやろな……」
カンゾウ塾長室には、4人の講師が、並んで立っていた。
細身の数学講師、神経質そうな化学講師、ボソボソ喋る物理講師、そして顔色の悪い現代文講師。
いずれも、夏期講習の申込数はゼロ。
彼らはタクミの机の前で、声を揃えた。
「もう限界です。ニシオオジ先生のやり方、目に余ります」
「勝手に申し込み用紙に丸をつけ、生徒に自分の授業の受講を強要しています」
「生徒も“あの先生が怖い”って……僕の講座からも流出してますし……」
「彼女が配るお菓子で、授業後の教室はベタベタなんです……!」
タクミは黙って、おでんの容器を見つめていた。
机の上には、コンビニの白いビニール袋。
中からのぞくは──コンビニおでん(つゆ多め)。
「……あのなぁ」
ゆっくりと顔を上げたタクミは、少し笑った。
「お前らなぁ、よう言うわ。ニシオオジはな、確かにクセある。おもんない話も長い。プリントも多い。ヒョウ柄も暑苦しい。でもな──」
パンッ!
タクミが机を上から叩く。
その衝撃で、紙袋の中の容器が跳ねた。
ジュピッッ!
汁が飛ぶ。
講師たちのシャツに、顔に、眼鏡に、おでんのつゆが跳ねる。
「うわっ……!」
「ちょっ……つゆ……」
「……ああ……僕の白衣が……」
「いいか。お前らがつゆ被ったのは天罰や。いや、ちゃう、デン罰や」
タクミの語調が一段上がる。
「営業妨害?アホか。客を取られるんは、お前らの講義がショボいからや!」
「受験生はな、“客”や。そいつらに何を提供できるかや。ニシオオジはな、たとえウザがられてもアメちゃん撒いて、プリント撒いて、顔と名前売って、生徒らに存在を刻み込んどる」
「で?お前らは?週1回90分のショーで何した?寝ぼけた声で、黒板に小さく公式書いて、説明したつもりか?」
タクミは、湯気の立つ結び昆布を指でつまみ上げた。
「これは昆布や。でもお前らは何や?中身も出汁もない、ただの“昆布の袋”や。味出してへんやろ」

「“私の授業は真面目なんですぅ”ちゃうねん。面白くなければ予備校じゃない。エンタメやぞ」
誰も反論できなかった。
「客の目を見ろ。受講者ゼロの講師が教育を語るな。語っていいのは、人気講師か、結果出した者だけや」
「勘違いすんなよ。“90分”が勝負ちゃう。勝負は、講義がない日に始まっとる。プリントでも、おしゃべりでも、アメちゃんでもええ。生徒に“勉強せなアカン”って思わせたら、それで勝ちや」
そして──
「だからな、お前らは三流や。いや、“我流”の“下流”や。“韓流”でも“主流”でもない、“ファック流”や」
──沈黙。
シャツに滲んだおでんのつゆが、じんわりと熱かった。
「はあ……おでん、こぼしてもうた……」
タクミが最後につぶやいた。
「ニジオオジの講習、満員やて?……まぁ、ええこっちゃ。プリント印刷代だけは削っとけ言うとけ」
その声には、怒りも皮肉もなかった。
ただ、確かな手応えがあった。
その週末あたりから、カンゾウの空気に微かな変化が生まれたのだ。
講師控室のプリント棚には、「自習用問題」「確認テスト」「やってみようプリント」といった紙束が目立ち始め、化学講師は授業後、生徒に「復習の小ネタ」を手渡すようになった。
物理講師も、自前で作った問題集を「気が向いたらやって」と配り始めた。
そして現代文講師。
いつも無言で帰っていた男が、その日は「何か甘いもんでも食べて頑張って」とつぶやいた。
生徒が手にしていたのはキットカットだった。
タクミが、カップのおでんを片手にニヤリと笑った。
「ふっ、おでんの汁、効いたな」
第4話へつづく