第7話:ホットカルピスの刑

カンゾウ──正式名称、関東学力増進機構。
大手予備校ではないが、知る人ぞ知る都内にある大学受験予備校だ。

その一角、女子生徒の水谷歌帆(みずたにかほ)は、夕方の自習室で赤ペン片手に英語長文と格闘していた。
表情は明るく、頷きながらも視線は真剣。

隣に座るのは、質問対応係のチューター、山根吉弘(やまねよしひろ)。
東大文Ⅰ在籍、真面目な性格。やや挙動不審。

「ここの構文、ちょっと特殊なんでね、えっと…“倒置”って言葉、聞いたことある?」
「はい! あ、たぶん中学校でやったかも……」
「あっ……そうそうそう、それ! すごいね、覚えてるんだ、えらい!」
「あはは、ありがとうございます〜」
笑顔で礼を言うカホ。

──それが、すべての始まりだった。

数日後。
事務局に届いたのは、歌帆の保護者からの連絡メールだった。

「娘が通うカンゾウのチューターから、授業外の時間にもLINEで頻繁に連絡が来ています。最初は学習指導と思っていたようですが、次第に“スタバで教えるよ”“カンゾウのあとどっか行こう”など、明らかに不適切な誘い文句が増えています。ご対応をお願いできませんか。」
添付されたスクリーンショットには、ヤマネの送信したLINEが並ぶ。

【ヤマネ】
「今日の授業、めっちゃがんばってたね」
「えっと、今度さ、カンゾウの前にスタバ寄って勉強するのどう?」
「自習室だと周り気になるかなって思って…。2人だけの方が集中できそうじゃない?笑」

【カホ】
(未読)

総務室の東山が顔を青ざめさせながら、そのメールを握りしめていた。

塾長室に直行したヒガシヤマ。

島田タクミは、メールの内容を読み終えたあと、腕組みしながら椅子に深くもたれた。

「“2人だけの方が集中できそう”……? 何を集中させようとしとんねん」

総務のヒガシヤマが、そっと口を開く。

「ヤマネくん……学力も高いですし、勤務態度も真面目なんですが、ちょっとコミュニケーションが……その……女性経験が乏しいというか」

「お前、それ“DTです”って言うてるようなもんやぞ」

「はっ、申し訳ありません……」

「ほんで、呼び出しは?」

「本日18時に面談入れました」

「よっしゃ。あとはワシに任せとけ──」

タクミは、コンビニ袋から取り出したホットカルピスのフタを開け、レンジで温め直しながらつぶやいた。

「……ええ加減、精巣パンパンの野郎に、“冷却指導”が必要やろ」

時刻は18時。
冬の夕暮れ。窓の外には白く濁った吐息が浮かぶ。

カンゾウ塾長室。
軋むドアの開閉音。

「失礼します……」

現れたのは、東大文Ⅰの現役生チューター・ヤマネだ。

猫背ぎみで、表情は曇っている。手にはノート。おそらく言い訳を書いてきたのだろう。

「お前が、ヤマネか?」

タクミ、腕組みしたまま座っている。

「は、はい。あの、今回の件ですが……まず、その……あの……決して、やましい気持ちでLINEしたわけじゃなく……その、学習意欲を高めるというか……いや、その、えっと……」

タクミの視線が動かない。

ヤマネは語りながら、汗を拭くタイミングを見失っていた。

「ヤマネ!」

「は、はいっ!」

「お前、“There is a pen on the desk.”は知ってるな?」

「えっ? あ、はい……え?」

「その机の上にあるもんは何や?」

山根は一瞬視線を落とす。

「え……カルピス……ですか?」

「そうや。ホットカルピスや。」

突如、タクミはテーブルに両肘をつき、ゆっくりと身を乗り出した。

「なぁ山根。お前は今、“社会”の何に立ってる?」

「……?」

「“立場”や。“立場”がわかってへんから、アホみたいなLINE送りよるんや」

ヤマネ、ようやく苦笑い。

「……いやでも……その、彼女がすごく素直で、明るく反応してくれるから……つい」

その瞬間、タクミの声が跳ね上がる。

「出た!“つい”!お前な、“つい”が地獄の入り口なんやぞ!」

「す、すみませんっ!」

「よくおるんや、日本の男には。ちょっと笑顔でリアクションされただけで、“あの子は俺に気がある”と勘違いするアホが! 違うんや!女は敵を作らんために笑顔で返す生き物や。社交辞令や。惚れられたと思うな、ボケ!」

タクミは立ち上がり、ホットカルピスに手をかける。

「ワイかてな。“東大卒の先輩”として情けない思いしてんねん。お前みたいな道程野郎がな、東大の名を汚しよってからに……」
(※注:タクミは東大卒ではありません)

「“東京大学卒業”言うたら、世間は“頭ええ、紳士的、常識ある”思うとるんや。それが何や、受験生にLINEで“塾の帰りにスタバ寄ろう”やと? お前、偏差値でしかモノ考えられん病気か?」

ヤマネの肩がピクリと揺れる。

「“冷やしとけや、アホンダラ”」

「えっ?」

その瞬間。
バゴン!
タクミの平手が塾長机を叩きつけると、机の端に置かれていたホットカルピスのペットボトルが跳ね上がり──
キャップが外れ、ヤマネんお股間に着弾。

あちぃッッ!!!!!!!!!!!!!!!

山根、声にならぬ悲鳴。

「火傷したか? 精巣がパンパンなんやろ? 冷やしとけや、アホンダラ」

もはや山根はひざまずき、両手で前を押さえ、顔面を真っ赤に染めていた。

──数日後。

総務室の片隅。ヤマネはチューター用のパソコンの前に座っていた。

以前とは違う。今は教材制作部門の“裏方”だ。
確認テストの採点、配布プリントの編集……地味な作業が続く。
とはいえ、どこか穏やかな表情だ。

自習室では、カホがいつもどおり明るくペンを走らせている。
特にヤマネのことを気にした様子もない。

このくらいの距離感がちょうどいいのだ。
ヤマネ本人も、それをようやく理解し始めていた。

塾長室では、タクミが缶コーヒーを片手にニヤリと笑っていた。

「時給も下げて、ヤツも出直しや。これで安くコキ使える」

ヒガシヤマがニヤリと笑う。

「……またブラックですねぇ、塾長」

「なんやヒガシヤマ、時給上げろ言うてきたら、“お前のハレンチ行動バラすぞ”って脅せば黙るやろ」

「いやあの……パワハラと脅迫ですよそれ」

「ええんや。これで“桜教育サービス株式会社”から教材買う必要なくなったわ。自社で作れる、安くて東大クオリティや」

ヒガシヤマは苦笑しながら、そっと塾長室から退出した。

冬の夜。

タクミの机の上には、新しいカルピスウォーター(冷)が置かれていた。

「おぉん? こっちは冷えとるな……さすがに“熱帯パンチ”は一日一発までやな……」

誰に言うでもなく、ぼそりと呟いた。

第8話へつづく