カンゾウの塾長室。
島田巧(しまだたくみ)は、いつものラガーシャツ姿で、机に足を投げ出していた。
「……次の冬期講習のパンフ、表紙は俺で行こか。“東大合格請負人 島田巧”が大見出しやな、……ふっ」
自分の肩書きに酔いしれていると、コンコンとドアをノックする音。
「失礼します」
入ってきたのは、黒縁メガネの東大生だった。
カンゾウの卒業生で、現在は東京大学理科二類に通う男子。
カンゾウのOBとして、彼は時々ヘルプでカンゾウに生徒を教えにやってくる。
「おお、お前かいな。久しぶりやな。元気にやっとるか?」
「はい。塾長こそ、お変わりないですね」
「変わるわけあるかい。こっちは教育界のマツケンサンバや。派手で厚かましいままや」
彼は苦笑して、バッグから小さな紙袋を取り出した。
「これ……差し入れというか。赤門横の生協で売ってる東大グッズです。塾長、好きかなと思って」
「おお……?」
中から出てきたのは、東京大学のエンブレムが入った赤いタオルハンカチと、東大ラグビー部のラガーシャツだった。
「ほぉ……ラガーシャツか。赤門ブランドか……」
タクミはにやりと笑うと、ラガーシャツを胸に当てて鏡を見た。
「……ラガーシャツに、東大。最強やろ?」
一拍置いて呟く。
「……ま、ラグビーだけは早稲田と明治には勝てへんけどな」
彼は笑った。
「塾長は、やっぱり面白いですね」
「当たり前や。予備校講師は芸人や。笑わせてナンボ。まあ、俺の場合、笑わせた後で泣かせて、最後は財布の紐も緩めさせるけどな」
OB男子は、頭を下げて部屋を出ていった。
その背中を見送りながら、タクミはふふんと鼻を鳴らした。
(……東大ブランド。今日はこれを活かす夜にしたろかいな……)
そう心の中で呟くタクミ。
夜のキャバクラへと向かう彼の背中には、赤門のラガーシャツが誇らしげに覗いていた──。
夜の歌舞伎町。
キャバクラ「Le Rêve」で、タクミは焼酎の水割りを片手にくつろいでいた。
赤門ラガーシャツに、金色の腕時計。
いつもより胸を張り、余裕の笑みを浮かべている。
隣の席から、笑い声が聞こえてきた。
「いやぁ、結局さぁ、Fランって社会出たら詰むよな?」
「いやほんと。部長止まりどころか、課長にもなれないって」
「この前もさぁ、取引先に高卒のおっさんいてさ。まあ、話してみりゃわかるわ。“あ、高卒だな”って」
「はははっ」
わざと聞こえるように言う、スーツ姿の二人組。
そのうち一人が、タクミのラガーシャツをチラ見して、ニヤリと笑った。
「あれ、そっちのテーブルのセンパイ、なかなか味出てるね。多分高卒だよなぁ。あー、だとしたら納得。あ、しまった、今の時代、学歴なんて関係ないですもんね! とか言っとかないと後で恨まれるからなぁ」
タクミの握るグラスが、小さく震えた。
(……ええ身分やのう……)
その男がトイレに立った。
タクミの横を通りかかった瞬間、タクミは足を伸ばした。
「うわっ!」
男はバランスを崩して前のめりに倒れ、派手な音を立てて床に転がった。
「な、何するんですか!?」
「……あ、しまった。今の時代、足が滑ってしまったって言っとかんと後で恨まれるわ」
「き、聞いてたんですか!? さっきの……」
タクミはゆっくりと立ち上がった。
「耳に入ってきたんじゃ」
男は睨みつけてくる。
「はぁ? なんなんだよ、あんた! どうせFランだろ? ってか高卒か?」
その言葉を聞いた瞬間、タクミはゆっくりと、赤門ラガーシャツの襟元を直した。
「俺か? 東大や」
「えっ……東大?!」
「そうや……ラガーシャツに、東大。最強やろ?」
一拍置き、ニヤリと笑う。
「……ま、ラグビーだけは早稲田と明治には勝てへんけどな」
男が口をパクパクさせている間に、タクミは軽く手を伸ばした。
そして、人差し指をピンと弾き──
コツン。
額に小気味よい音が響いた。
「いっ……! な、何すんだよ!」
タクミはふふんと鼻を鳴らす。
「これが東大パンチ、いや東大デコピンじゃ」
デコピンを受けた男は、頭を押さえて情けない顔をしていた。
その様子を見下ろしながら、タクミは肩をすくめてみせる。
わざとらしくラガーシャツの胸元を叩き、得意げに鼻を鳴らした。
「お前らみたいな小物相手に、拳なんか必要ないわ。指一本で十分や」
男が頭を押さえて唖然としている隙に、タクミは手元のグラスをぐいっと空けた。
「みんな、学歴の話はほどほどにな。夢を壊したらあかん」
氷がカランと鳴り、その余韻だけが店内に広がった。
第9話へつづく