第9話:万札ほほ叩き

カンゾウの自習室。
夕方5時を過ぎ、外は群青色に沈みかけている。

夕陽に照らされた自習室で、一人だけ足を組み、イスを斜めに傾けて座る男がいた。

家永功騎(いえながこうき)、22歳。
この春で4浪目を迎える「古参」の浪人生だ。

目の前のテキストは開かれたまま、彼の視線はページの上を滑らず、遠くを見つめている。

周囲の現役生や1浪生たちが、蛍光ペンを走らせる音だけが静かに響く。

「……ほんと、みんな必死だよなぁ」

ボソリと漏らす声に、隣の席の1浪男子がビクッと肩を震わせる。

コウキは、無意味にペンをクルクルと回しながら続けた。

「まあ、そりゃそうか。現役とか1浪のうちは、まだ“夢”見れるもんな。」

口元が歪む。

「俺?ああ、俺はさ……もう4浪目。島田サンも俺のこと知ってんじゃない?ここ、長いからさ。」

あえて“塾長”とも“先生”とも呼ばない。

彼にとって島田タクミも、この予備校も、“自分が既に見切った場所”でしかない。

「でもさ……もうここまで来ると、人生俯瞰できちゃうっつーか。わかるんだよ、結局さ、受験なんて意味ないって。」

その言葉を聞き、近くで英文法を解いていた女子生徒の鉛筆が止まった。

コウキは彼女に目も向けず、続ける。

「どうせ、どこの大学行こうが行かまいが、人生なんとかなるようにできてんだよ。そんな顔すんなって。君たちもさ、無理すんなよ? 勉強なんてさ、“やる気ある風”にしてれば、親も先生も納得するんだからさ」

他の生徒たちは震える指で鉛筆を握り直し、視線をテキストに戻した。

だが、コウキの“俯瞰”という名の冷笑は、隣席の現役生たちの心を静かに蝕んでいった。

その様子を遠巻きに見ていたチューターが、ため息をつきスマホを取り出す。

「……やれやれ。またかよ。」

画面にはLINEのトーク欄。
相手は「島田塾長」。

チューターは指を動かした。

島田塾長
イエナガコウキがまた自習室で他の生徒のやる気削ぐようなこと言ってます。
現役生も1浪生も、結構ショック受けてる様子です。

送信ボタンを押した瞬間、既読が付いた。

──その数分後。

自習室の静寂を打ち破るように、ドスドスドス……と床を揺らす重い足音が近づいてくる。

誰も顔を上げないわけにはいかなかった。
ラガーシャツ姿の島田タクミが、手にコンビニ袋をぶら下げながら無言で入ってくる。

空気が一瞬で張り詰めた。
タクミはまっすぐイエナガの背後へと立つと、コンビニ袋を机に置き、ゴツンと中身が揺れる音がした。

「……イエナガコウキ」

無表情で名前を呼ばれると、コウキはゆっくりと顔を上げた。

「島田サン……あ、オレっすか?」

「おう。ちょっと来いや」

タクミの声は低く、湿度を帯びていた。

自習室の空気がさらに冷え込む。

「え、何すか。オレ、別に悪いことしてないっすけど」

そう言いながらも、コウキは面倒くさそうに重い腰をあげた。

タクミが背を向けて歩き出すと、少し離れてその後ろに付いていった。

チューターも他の生徒たちも、イエナガが小さく呟くのを耳にした。

「チッ……ダリィな……」

塾長室。

「島田サン。わざわざ場所を変えて何なんっすか?」

タクミは肘掛け椅子にどすっと座り、100円ライターでタバコの火をつける。

「……お前、さっき何言うとった?」

「は?別に? 現役とか1浪がピーピー頑張ってんの見て、必死だなって思っただけっすよ」

コウキは鼻で笑う。

「もう4浪もしてりゃあさ、人生俯瞰できるっていうか。達観?俯瞰?……そんな感じっすよ。」

タクミは黙ってコウキを見つめた。

──沈黙。

部屋の空気が重くなる。

「……俯瞰?達観? ほぉ」

タクミは机の引き出しを開け、茶封筒から分厚い札束を取り出した。

万札の束を取り出し、バラリと広げる。

「俯瞰?達観?お前が言っとるのは劣等感の屁理屈や」

コウキが、笑顔のまま固まった。

「そもそもな、俯瞰でモノを言えるのは、一回でも頂点とった奴だけや。なんも成し遂げとらんやつが言う“俯瞰”なんてのはな、“やる気のない自分”を正当化する言い訳や」

タクミは無造作に札束をイエナガの頬に当てて、はたいた。

パン・パン。

乾いた音が響く。

「……わかるか?これが夢料や」

コウキの頬に押し当てた万札の束を、今度は反対側からパァン、と叩く。

「これがお前が座っとるそのイス代や。この一枚一枚が親の汗水垂らした金で、お前らの夢を繋いどるんや」

コウキは札束で頬を打たれる屈辱に耐えながら、わずかに目を伏せた。

タクミは、さらに低い声で囁く。

「……お前はこの100枚のうちの1枚でも稼ぐチカラあるんか? 無いのに、それを奪う権利があるんか?」

コウキの喉がコクリと鳴った。

タクミは札束を机に投げ出し、冷めかけたおでんの袋を掴むと、ゆっくりと振り向いた。

「予備校はな、夢を売るシノギや。オレらは“夢料”で飯食うとるんや。オレらのショバ (場所)を荒らす奴は──客やろうが、問答無用で潰す」

コウキは黙っていなかった。

「……おかしいじゃないですか、島田サン。俺も客っすよ? ここに何年も金落としてんすよ?あんたら、その夢料で飯食ってんだろうが」

言葉には剣があった。

タクミは一拍、間を置いた。

おでん袋を机に置き、札束の端をトントンと揃える。

「……確かにな」

静かな声。

だが次の瞬間、目つきが変わった。

「せやけどな、コウキ。“客やから偉い”っちゅうんはな、金を払っただけやなくて、“結果を出してから”言え」

コウキの眉がピクリと動く。

タクミは札束をひとつ取り出すと、それをペラペラとめくりながら続けた。

「お前が払った金は、お前の“夢料”や。でもな、その夢、まだ何も形になっとらんやろ。結果も出しとらんクセに、他の客の夢まで腐らせとるんやったら──」

札束で再びコウキの頬をペチンと軽く叩いた。

「──それは“客”ちゃう。“営業妨害”や。」

コウキは睨み返す。

「でも……でもよ……!もう俺は……夢見るのに疲れたっつーか……。俯瞰で見たら、くだらねーなって……」

タクミの目が細く笑った。

「俯瞰? 達観? 違うわ、破綻や──。俯瞰でも達観でもない。ただ足元から崩れとるだけや。せやからお前は動けんのや」

イエナガは言葉を失う。

「俯瞰・達観・人生完」

そう言い、タクミは再び札束を机に叩きつけた。

「俯瞰もいいがな、そもそもな、俯瞰でモノを言えるのは、一回でも頂点とった奴だけや。なんも成し遂げとらんやつが言う“俯瞰”なんてのはな、“やる気のない自分”を正当化する言い訳や。俯瞰しすぎて何もせずに、人生終了、人生完や。それでええんか?」

静まり返る塾長室。

ただ、冷めかけたおでんの湯気だけが、二人の間にゆらゆらと揺れていた。
タクミはおでんの袋を机の上に置き、湯気混じりの熱気を鼻で吸い込んだ。

「帰れ。次、シノギ荒らすようなら──このおでん汁、頭から浴びせたるからな」

コウキは無言で軽く頭を下げると、塾長室を後にした。

タクミは背中越しに吐き捨てた。

「……4浪でも客は客や。けど、カンゾウのシマ荒らしは、客やない」

湯気の向こうで、タクミの目は獲物を睨む獣のように光っていた。

第10話へつづく