第10話(終):自分パンチ

JR京浜東北線、西川口駅から歩いて10分ほど。
築40年超えの古びたビジネスホテル。

廊下には、カビ取り剤と芳香剤が混じったような酸っぱい匂いが立ち込め、ベージュ色のカーペットはところどころ黒ずみ、壁紙は剥がれかけていた。

そんな3階の一室。
午後4時。

まだ外は明るいが、カーテンは閉ざされ、空気は重く淀んでいる。
ベッド脇の小さな丸テーブルには、冷めきったコンビニおでんの袋と、東芝製の古いノートPC。
その隣には、飲み切った紙パック焼酎や、チューハイの空き缶が無造作に転がっていた。

室内の椅子に腰かけ、ぐったりとうなだれる男。

島田巧(しまだたくみ)。

ラガーシャツ姿、無精髭、髪は寝癖で跳ね、焦点の合わない目は虚空を彷徨っている。

数日前まで、彼は関東学力増進機構、通称「カンゾウ」で数百人の生徒と数十人の社員と講師を束ねる“塾長”だった。

しかし、キャバクラ、スナック、天ぷら、ダーツバー、FX……。

“遊行費”を会社の経費で落とし続けた挙句、経理からの告発で役員会にて、代表解任。

──結果、追放。

自分が作り上げた“帝国”から、自分自身が叩き出された。

それでもタクミは、反省などしていなかった。
女遊びも、キャバクラも、カジノも、金を使うことも。

むしろ、別の感情が胸を締め付けていた。

「……はぁ」

冷めたおでん袋から立ち上る湯気が、天井へと細く伸びていく。
タクミは、ノートPCの黒い画面に映る自分を見つめた。

やつれた頬、濁った目、ヨレたラガーシャツ。

「……なんや、このザマは」

かつて、生徒に、社員に、講師に、そして保護者に“パンチ”を浴びせ続けた男。

これで何人もの人生を動かし、歪ませ、泣かせ、笑わせてきた。

「オレは……オレやろ……?」

声が震える。

「……オレは……島田タクミやろ……?」

小さく笑う。
乾き切った喉から漏れるのは、自嘲の笑いだった。

しかし、その笑い声は妙に大きく、壁一枚隔てた隣室にまで響いていた。

隣室では、休憩中の外国人労働者たちが顔を見合わせる。

「……Again?」

「Noisy…」

その頃、廊下を巡回していたフロントスタッフの若い女性が足を止めた。

(……まただ。この部屋、声が大きいんだよな……)

中からは、くぐもった男の怒鳴り声と、何かを叩くような鈍い音が漏れている。

女性スタッフは、恐る恐るドアの前に立った。

「……お客様? フロントですが、大丈夫ですか……?」

ノックをしても返事はない。

──そして。

ガチャリ。

ドアがゆっくりと開いた。

そこには──
頬を赤く腫らし、鼻血を滲ませた顔で、自分の頭を拳で殴り続けるラガーシャツの男がいた。

「ちくしょぉ……タクミィィ……しっかりせぇ……オレは……こんなところで終わる男やないやろがぁ……!」

女性スタッフは、顔面蒼白で絶叫した。

「ひ、ヒィィッ……!!」

廊下に響く悲鳴。

タクミは気にも留めず、血と鼻水にまみれた顔で、自分自身を殴り続けていた。

ビジネスホテルの廊下には、フロントスタッフの悲鳴が響き渡っていた。

だが、室内で拳を振り下ろす島田タクミには、その声さえ届いていない。

「オレは……こんなとこで……終わるかボケぇ……!」

殴られた自分の頬が熱い。
血の味がする。
けれど、それが心地よかった。

「……オレは、島田タクミや……。あんだけ生徒に説教して、社員に威張り散らして……」

呂律の回らない声で笑う。

「……なのに、なんや……? キャバクラ、ギャンブル、女、飯……全部経費で落とすことしか考えてへんかったオレが……。こんなことで、終わるんか……?」

虚ろな目が、ぼろぼろのカーペットを見つめる。

「……小せぇわ……オレじゃない。オレを追い出したあいつらや……」

唇を歪め、笑った。

ボコっ!

再び自分の顔面を殴りつける。

「経費や接待のことでチマチマ追求しよって……。そんなしょうもない“小せぇこと”で、“デカいオレ”を潰した気でおる……」

血走った目に、悔しさと怒りが混ざる。

「……しょーもな……あいつら全員……オレは……もっとデカい存在やろが……!」

彼は自分で自分の胸倉を掴んだ。

「しっかりせぇタクミ!! お前は“帝王”やろがぁ……!“オレは天下取る男や”言うて……この程度のザコどもに負けるんか……!」

拳が、自分の頬を再び打つ。

ガスッ。

「……あのガキどもに、社員どもに、保護者どもに……あんだけデカイこと言うたオレが……!」

ガスッ、ボコッ!

「……こんな“小せぇ奴ら”に潰されて……終わるわけには……いかんやろが……!」

鼻血が垂れ落ち、古びた絨毯に赤黒いシミを作った。

そのとき。

窓の隙間から、夕陽が差し込んだ。
埃を含んだ空気をオレンジ色に染める光。

タクミは、血にまみれた自分の手を見つめると、口の端をゆがめて笑った。

「……フッ……せやな……」

低い声で呟く。

「オレは……まだ終わってへん……」

その夜。
彼は、久しぶりに髭を剃り、頭を洗った。

──そしてそれからの数ヶ月間、彼の行方を知る者は誰もいなかった。

場所は変わる。
東京都・西新宿。

そこは、選ばれしエリート層と富裕層が往来する、まばゆいばかりに清潔な「昼の街」だった。

早朝から、高層ビル群のガラス張りの壁面は、柔らかい朝の光を反射して眩いばかりに輝く。
仕立ての良いスーツに身を包んだビジネスパーソンたちが行き交い、磨き上げられた革靴がアスファルトを滑る音が心地よく響く。

オフィスビルへと吸い込まれていく彼らの表情には、都会で成功を収めた者だけが持つ自信と知性が滲み出ていた。

道の両側には手入れの行き届いた植栽が並び、街全体が塵一つない清潔感を保っている。
ここには、歌舞伎町の喧騒とも、池袋北口の場末感とも無縁の、品格ある静寂が流れていた。

そして──
この街の中心を貫く超高層タワービルの37階。
そこに入居する、医学部専門予備校『メディカルデラックス』。
年間の学費は最低でも800万。夏期講習や合宿、一流講師の個別指導を含めれば2000万、3000万にも膨れ上がる。
政治家の娘、開業医の息子、財閥の孫──。
金の匂いをまとった生徒たちと、その親たちが集う場所。

受付フロア。
シャンデリアが煌めき、広い窓から新宿中央公園の緑と高層ビル群が一望できる。
そこへ、白いダブルのスーツを着こみ、金色のネクタイを締めた男が現れた。

その瞳には、まだ消えない野心の炎が宿っていた。

ー完ー

loop back next⇒メディカル戦線異状あり!