午後三時を過ぎたばかりだというのに、斑鳩の空には夏を思わせる入道雲がむくむくと湧き立っていた。
遠くで微かに雷鳴が響き、湿った風が法隆寺の土塀沿いを静かになでていく。
この町には、千四百年前から変わらぬ時間が流れている。
聖徳太子ゆかりの法隆寺や斑鳩宮、東福寺跡。古墳時代から飛鳥時代、中世へと続く歴史の痕跡が、土の中だけでなく、町並みのそこかしこに今も息づいていた。
法隆寺西院伽藍を囲む土塀の向こうからは、観光客たちの小さなざわめきと、風鈴や鹿威しの澄んだ音だけが響いてくる。だが、その音ですら、古都の静寂を破ることなく、むしろこの土地に溶け込んでいるようだった。
この斑鳩(いかるが)という地名の由来には諸説ある。
太く黄色いくちばしを持つイカルという鳥が群れをなし、鳴き交わしていたからという説。あるいは、この地に伊香留我伊香志男命(いかるがいかしおのみこと)が祀られていたことによるとする説。
──いずれにせよ、この地の空気には、古代から続く静けさと、どこか神聖さを感じさせるものがあった。
その参道を、スーツ姿の男がキャリーバッグを引きずりながら歩いていた。
権藤龍太郎(ごんどうりゅうたろう)。
黒のスーツは背中に皺が寄り、ワイシャツは首元がやや黄ばんでいる。キャリーバッグの車輪が、石畳の隙間に引っかかってガタガタと鳴った。
「……暑い……」
額から滴る汗を拭いながら、立ち止まる。

参道脇には、聖徳太子の木彫りや薬師寺写経セットを並べる土産物屋が軒を連ね、奈良漬けの甘い香りが漂っていた。その合間に、真新しいガラス張りのカフェが溶け込むように建っており、若い女性たちがアイスコーヒー片手に談笑している。
(東の医専がメディカルデラックス……そして、西の医専は、ここ“イカルガ”だ……)
キャリーバッグの取っ手を握り直す。
斑鳩医学館。
地元では「イカルガ塾」と呼ばれ、超名門医学部専門予備校としてその名を轟かせていた。
東京での取引先だった関東学力増進機構(カンゾウ)は倒産。島田タクミも転落した今、ゴンドウのブローカー稼業も先が見えなくなっていた。
(ここに食い込めば……いや、何としても食い込まなきゃならない……)
喫茶店に入り、アイスコーヒーを注文すると、冷たいグラス越しに斑鳩の町を眺めた。
北には矢田丘陵の緑が広がり、南には田園地帯が青い絨毯のように果てしなく続いている。稲穂はまだ青く、風にそよぐたびに波紋のように揺れていた。
(……この町ごと呑み込むような予備校だって聞いたが……さて、どんなもんか……)
コップの水滴が、指先を冷たく濡らした。
斑鳩の空に、再び遠雷が鳴った。
その音が腹の底を揺らしたとき、ゴンドウ龍太郎は気づかなかった。
この古都の静寂に包まれた予備校が、自分の目論見を一切寄せつけず、“小さな男”であることを突きつける場所だということに──。
ゴンドウがタクシーを降りたのは、法隆寺の裏手に伸びる細い道だった。
石畳を歩き抜け、視界が開けた先に、それはあった。
古びた切妻屋根、瓦はところどころ苔むしている。だが、二階建ての母屋と奥に続く渡り廊下、手入れの行き届いた庭園が、圧倒的な存在感を放っていた。
木製の門扉には、真鍮で彫られた看板がかかっている。
【斑鳩医学館】
(……これが、“イカルガ塾”……)
ゴンドウは無意識に唾を飲み込んだ。
外観は完全に、寺院か老舗料亭だ。しかし門をくぐると、一転して中は冷気を帯びた最新鋭の空間が広がっていた。
壁は漆黒と白木で統一され、カウンターには受付の女性が二人、着物姿で座っている。その背後の壁には巨大な電子パネルが設置され、医学部入試の最新データが滝のように流れていた。
「失礼ですが……どちら様で?」
受付の女性が、柔らかくも隙のない笑顔を向けてくる。
「あ、えっと……ゴンドウと申します。館長と、お約束を……」
名刺を差し出すと、女性は一礼し、内線電話を取り上げた。
「…少々お待ちくださいませ。すぐにご案内いたします。」
通されたのは、漆喰壁と障子戸に囲まれた畳敷きの応接室だった。
冷房が効いているのに、どこか檜の香りが漂っている。
静寂の中で、掛け軸に書かれた【無為自然】の文字だけが厳かに存在していた。
──そして、襖が静かに開いた。
現れたのは、一人の男性。
和装。灰色の紬に薄藍の羽織。白髪をきちんと後ろに撫でつけ、黒縁の眼鏡をかけている。
一歩、室内に入るだけで、空気が張り詰めた。
男は、微笑んだ。
「初めまして。漆部実(うるしべみのる)と申します。ようお越しくださいましたなぁ」
柔らかく、どこか京都弁にも似た上品な抑揚。その声音には鋭さも含まれていた。
「ゴンドウと申します。あの……本日はお時間いただき……」
「ああ、どうぞ、お座りください」
ウルシベ館長は静かに腰を下ろすと、ゆっくりと手を膝の上で組んだ。
「遠いところからお越しいただいて……道中、お疲れでしょう?」
「は、はい……いや、しかし……立派なところですね……」
「そんなことは……この建物も、元は江戸時代の薬師堂を改築しただけのものですわ。古いものは古いまま、使わせてもらう。新しいものは新しいまま、取り入れさせてもらう。それが“斑鳩”という場所の生き方です」
ゴンドウは視線を泳がせた。
奥の壁には、銀色に光る最新型のサーバーラックが整然と並び、その横に和箪笥が置かれている。目の前のテーブルは黒漆塗り、その上に置かれた茶器は信楽焼。古と現代が違和感なく並んでいた。
(……何だ、この空気感は……)
ウルシベは、変わらず穏やかな笑みを浮かべている。
だが、その瞳の奥には、一切の甘えや弱さを許さぬ強さがあった。
「……さて。今日は、どのようなご用件で?」
声は柔らかいが、問いかけの刃先は鋭かった。
ゴンドウは思わず背筋を正した。
(……こりゃあ……甘くはないな……)
頭上でエアコンの微かな風が流れる。
その音すらも、この館では一つの“調べ”のように思えた。
ウルシベミノル。
斑鳩という歴史の結界に君臨する“館長”の存在が、ゴンドウの小さな心臓を、ゆっくりと締め付け始めていた。
つづく