第2話:入塾の懇願

重厚な障子戸の向こうで、わずかな物音がした。

ゴンドウは、畳に正座したまま背筋を伸ばし、微かに響く声に耳を澄ませた。

(……誰か来たのか……?)

襖の隙間から、涼やかな夏の風が吹き込む。
鶯の声が遠くで響き、瓦屋根に当たる陽光が、白い障子紙にゆらゆらと映っていた。

その静寂を破ったのは、突如として響いた女の泣き声だった。

「館長お願いします……!どうか、どうか……娘を……!」

悲鳴にも近い懇願。

女の声は震えていた。年齢は四十代前半だろうか。泣き崩れるような嗚咽の間から、もう一つ、細く震える少女の声が聞こえた。

「……お願いします……やっぱり……私、医学部目指したいんです……」

少女の声は幼さを残しながらも、必死だった。

「厳しい道だということは……わかっています……でも……」

涙で詰まった声が途切れ、次の言葉は叫ぶように発せられた。

「……でも……何年かかっても……挑戦したいんです……!」

タクミの塾でも、伊東予備校でも、こういう場面は何度も見てきた。
だが、ゴンドウはすぐに違和感を覚えた。

(……様子が……違う……)

カンゾウなら、電話営業で怒涛のように押し切られた親が「はいはい、わかりました……」と観念して書類を差し出す場面だ。

イトヨビ(伊東予備校)なら、SNSや、チラシ広告に釣られて“洗脳された”親子が必死に入塾申込書を書いている場面だ。

しかし今聞こえてくるこの声は──
違った。

必死さのベクトルが違う。

客が、入れてもらおうと“懇願”しているのだ。

「……絶対に……逃げません……!決して……逃げたりなんか……!」

母親の嗚咽と娘の涙声が交錯する。

──なんだ、これは。

ゴンドウの喉が乾いた。

古都・斑鳩の、静謐な夏の午後。
畳の上で一人のブローカーが、己の浅はかな目論見を恥じるように、じっと黙っていた。

(……この塾……なんなんだ……)

「すいません、ちょっと急用のお客様がいらしたようですね」

ふと前を見ると、ウルシベが穏やかに立ち上がっていた。

薄藍の羽織が微かに揺れる。

「少しだけ、お待ちください。すぐ戻りますので」

静かに襖が閉じられた。

残されたゴンドウは、障子越しに響く声をただ聞いていた。

「……ありがとうございます……ありがとうございます……!」

──喜びとも絶望ともつかぬ、母親の絶叫。

斑鳩の空には、真夏の入道雲が立ち昇り、法隆寺の甍に強い陽射しが降り注いでいた。

障子の向こうで、襖の開閉音がした。

ほどなくして、ウルシベが戻ってきた。濃紺の羽織に白の帯、無駄のない立ち居振る舞い。微かに香る白檀の匂いが、部屋の空気を引き締める。

「……失礼しました。お待たせして申し訳ありません」

深々と頭を下げるウルシベ。

ゴンドウは、こわばった笑顔を作った。

「いえ……こちらこそ、突然お伺いして……。あの……すいません、隣の声……少し聞こえてしまいまして」

ウルシベはわずかに目尻を下げて微笑んだ。

「お恥ずかしい限りです。」

「いえ……ただ、ものすごい勢いのようでしたが……」

探るように言葉を重ねるゴンドウ。
ウルシベは静かに頷いた。

「……ああ、あのお客様ですか。昨日、一度お帰りいただいた方です」

「えっ……追い返した……んですか?」

ゴンドウの声に、わずかに驚きが混じった。

ウルシベは座布団の上に正座し直し、背筋を伸ばすと、ゆっくりと語り始めた。

「……生半可な気持ちで医学部を目指しても、途中で挫折する受験生が多いのです」

障子越しの陽光が、彼の横顔を柔らかく照らす。

「医学部合格は難しい。狭き門です。おおよそ14、15人に一人ほどしか合格できない。もう1年、さらにもう1年と勉強を続けても、結果が出ない人の方が多い世界です」

ゴンドウは黙って聞き入っていた。

「昨日も申し上げました。京都大学理系学部と同じ偏差値帯で戦わねばならないこと。東大の文Ⅰ、文Ⅱに合格する受験生が、私立医学部に落ちることも珍しくないこと。……必死に勉強しても報われない。燃え尽きる人も、中退する人も多い」

館長の声音は淡々としていたが、言葉の端々には冷徹な現実が滲んでいた。

「それでも挑戦する覚悟があるのか。医師になってからも、眠れぬ夜を何度も迎えるのだと。……そう伝えた上で、私は昨日こう言いました。今日は帰りなさい、と」

ゴンドウは小さく息を呑んだ。

(……帰らせた……?)

「私たちは“商売”ではありません。どんな生徒でもウェルカムではない。本当に医師になる覚悟を持った者しか受け入れないのです」

その言葉を口にするウルシベの目は、笑っていたが、奥底に黒曜石のような光を秘めていた。

ゴンドウは思った。
(……なるほどな……)

薄暗い新大久保の喫茶店で、借金漬けの女を風呂に沈める金融屋とソープの店長の会話が、脳裏に蘇る。

(……一度突っぱねる……相手の方から“やらせてください”と言わせる……覚悟を試すフリして、逃げられないようにする……)

唇の端に、苦笑いが浮かんだ。

(ナニワ金融道のソープに沈める手口と同じじゃねえか……)

だが、目の前の館長は穏やかに微笑んでいるだけだ。

「……なるほど……勉強になります……」

声にならない声で呟くゴンドウ。

ウルシベは立ち上がると、襖を開け、背を向けたまま語りかけた。

「さあ、もう少し斑鳩の町をご覧になっていかれたらいかがですか。」

外では、雷鳴が遠くで鳴っていた。黒雲が流れ、日差しがわずかに陰る。

──その時、ゴンドウの背筋を、冷たいものが走った。

(……この男……只者じゃねぇ……)

薄暗い廊下に、ウルシベの羽織の裾が静かに揺れた。

第3話へつづく