重厚な障子戸の向こうで、わずかな物音がした。
ゴンドウは、畳に正座したまま背筋を伸ばし、微かに響く声に耳を澄ませた。
(……誰か来たのか……?)
襖の隙間から、涼やかな夏の風が吹き込む。
鶯の声が遠くで響き、瓦屋根に当たる陽光が、白い障子紙にゆらゆらと映っていた。
その静寂を破ったのは、突如として響いた女の泣き声だった。
「館長お願いします……!どうか、どうか……娘を……!」
悲鳴にも近い懇願。
女の声は震えていた。年齢は四十代前半だろうか。泣き崩れるような嗚咽の間から、もう一つ、細く震える少女の声が聞こえた。
「……お願いします……やっぱり……私、医学部目指したいんです……」
少女の声は幼さを残しながらも、必死だった。
「厳しい道だということは……わかっています……でも……」
涙で詰まった声が途切れ、次の言葉は叫ぶように発せられた。
「……でも……何年かかっても……挑戦したいんです……!」
タクミの塾でも、伊東予備校でも、こういう場面は何度も見てきた。
だが、ゴンドウはすぐに違和感を覚えた。
(……様子が……違う……)
カンゾウなら、電話営業で怒涛のように押し切られた親が「はいはい、わかりました……」と観念して書類を差し出す場面だ。
イトヨビ(伊東予備校)なら、SNSや、チラシ広告に釣られて“洗脳された”親子が必死に入塾申込書を書いている場面だ。
しかし今聞こえてくるこの声は──
違った。
必死さのベクトルが違う。
客が、入れてもらおうと“懇願”しているのだ。
「……絶対に……逃げません……!決して……逃げたりなんか……!」
母親の嗚咽と娘の涙声が交錯する。
──なんだ、これは。
ゴンドウの喉が乾いた。
古都・斑鳩の、静謐な夏の午後。
畳の上で一人のブローカーが、己の浅はかな目論見を恥じるように、じっと黙っていた。
(……この塾……なんなんだ……)
「すいません、ちょっと急用のお客様がいらしたようですね」
ふと前を見ると、ウルシベが穏やかに立ち上がっていた。
薄藍の羽織が微かに揺れる。
「少しだけ、お待ちください。すぐ戻りますので」
静かに襖が閉じられた。
残されたゴンドウは、障子越しに響く声をただ聞いていた。
「……ありがとうございます……ありがとうございます……!」
──喜びとも絶望ともつかぬ、母親の絶叫。
斑鳩の空には、真夏の入道雲が立ち昇り、法隆寺の甍に強い陽射しが降り注いでいた。
障子の向こうで、襖の開閉音がした。
ほどなくして、ウルシベが戻ってきた。濃紺の羽織に白の帯、無駄のない立ち居振る舞い。微かに香る白檀の匂いが、部屋の空気を引き締める。
「……失礼しました。お待たせして申し訳ありません」
深々と頭を下げるウルシベ。
ゴンドウは、こわばった笑顔を作った。
「いえ……こちらこそ、突然お伺いして……。あの……すいません、隣の声……少し聞こえてしまいまして」
ウルシベはわずかに目尻を下げて微笑んだ。
「お恥ずかしい限りです。」
「いえ……ただ、ものすごい勢いのようでしたが……」
探るように言葉を重ねるゴンドウ。
ウルシベは静かに頷いた。
「……ああ、あのお客様ですか。昨日、一度お帰りいただいた方です」
「えっ……追い返した……んですか?」
ゴンドウの声に、わずかに驚きが混じった。
ウルシベは座布団の上に正座し直し、背筋を伸ばすと、ゆっくりと語り始めた。
「……生半可な気持ちで医学部を目指しても、途中で挫折する受験生が多いのです」
障子越しの陽光が、彼の横顔を柔らかく照らす。
「医学部合格は難しい。狭き門です。おおよそ14、15人に一人ほどしか合格できない。もう1年、さらにもう1年と勉強を続けても、結果が出ない人の方が多い世界です」
ゴンドウは黙って聞き入っていた。
「昨日も申し上げました。京都大学理系学部と同じ偏差値帯で戦わねばならないこと。東大の文Ⅰ、文Ⅱに合格する受験生が、私立医学部に落ちることも珍しくないこと。……必死に勉強しても報われない。燃え尽きる人も、中退する人も多い」
館長の声音は淡々としていたが、言葉の端々には冷徹な現実が滲んでいた。
「それでも挑戦する覚悟があるのか。医師になってからも、眠れぬ夜を何度も迎えるのだと。……そう伝えた上で、私は昨日こう言いました。今日は帰りなさい、と」
ゴンドウは小さく息を呑んだ。
(……帰らせた……?)
「私たちは“商売”ではありません。どんな生徒でもウェルカムではない。本当に医師になる覚悟を持った者しか受け入れないのです」
その言葉を口にするウルシベの目は、笑っていたが、奥底に黒曜石のような光を秘めていた。
ゴンドウは思った。
(……なるほどな……)
薄暗い新大久保の喫茶店で、借金漬けの女を風呂に沈める金融屋とソープの店長の会話が、脳裏に蘇る。
(……一度突っぱねる……相手の方から“やらせてください”と言わせる……覚悟を試すフリして、逃げられないようにする……)
唇の端に、苦笑いが浮かんだ。
(ナニワ金融道のソープに沈める手口と同じじゃねえか……)
だが、目の前の館長は穏やかに微笑んでいるだけだ。
「……なるほど……勉強になります……」
声にならない声で呟くゴンドウ。
ウルシベは立ち上がると、襖を開け、背を向けたまま語りかけた。
「さあ、もう少し斑鳩の町をご覧になっていかれたらいかがですか。」
外では、雷鳴が遠くで鳴っていた。黒雲が流れ、日差しがわずかに陰る。
──その時、ゴンドウの背筋を、冷たいものが走った。
(……この男……只者じゃねぇ……)
薄暗い廊下に、ウルシベの羽織の裾が静かに揺れた。
第3話へつづく