第3話:イカルガシステム

斑鳩の空は、早朝の青を透かしたまま、昼過ぎには白く乾いた光を落としていた。

ゴンドウ龍太郎は、館内用のスリッパに履き替え、イカルガ塾・本館の廊下を漆部館長に案内されていた。

廊下の両側には大小の教室が並び、そのガラス張りの扉から覗く内部は、まるでSF映画のようだった。

机には一切の紙教材がない。
代わりに整然と並ぶのは、黒く薄型のタブレット端末とイヤホン。

生徒たちは無言で画面を凝視し、ときおりタッチペンを走らせる。
そして、不意に表情を変えたかと思うと、また無言で問題を解き進める。

ゴンドウは無意識に足を止め、扉越しにじっと見入った。

「……すごい集中力ですね。誰も喋ってない」

ウルシベが微笑む。

「ここはAI学習専用教室です。“イカルガシステム”と呼んでいます」

「イカルガシステム……?」

ウルシベは軽やかに説明を始めた。

「最近流行りの教育サービスの『ドタマプラス+』をご存知ですか?」

「ああ……名前くらいは」

「その基盤AIをさらにカスタマイズしましてね。ここでは、生徒の解答時間や解答パターンはもちろん、座席センサーで心拍数、ストレスレベル、姿勢、視線の動きまで検知しています」

「え……心拍数……?」

「集中が切れた瞬間に、AIが問題の難易度や分野を自動調整し、興味を引き戻すんです。呼吸が浅くなれば“1分間の呼吸法休憩”をガイダンスしたり、瞑想モードに切り替えたりもします」

ゴンドウはゴクリと唾を飲み込んだ。

(……まるで軍隊や……いや、それ以上か……)

ウルシベ漆部は、やわらかな京都弁混じりの口調で続ける。

「問題もAIが生徒個別に生成します。学習履歴・得意分野・苦手傾向・忘却率を総合判断して、世界にひとつだけの問題を作る。生徒はそれを解いていくと、ゲームのようにステージクリア式でどんどん進みます」

ゴンドウは生徒たちのタブレット画面を覗き込む。

数式、英文、化学構造式、古典文法問題──
それらが次々とスライドし、正答スピードや正確性に応じて、難易度も出題分野もリアルタイムで変化していく。

(まるで……AIに脳みそを改造されてるみたいだ……)

その時、ゴンドウの目に奇妙な画面が映った。

「将来シミュレーション」というタブを開いている男子生徒。
そこには、志望学部に合格した場合の将来年収、結婚年齢、出産可能性、医師免許取得率、その後の離婚確率までもが細かく数値化されていた。

「……な、なんすかこれ……?」

「将来シミュレーションモジュールです。進路指導では、こういう“現実”を直視させることも大事なんですよ」

そう言って笑う漆部の目の奥が、またギラリと光った気がした。

そして教室奥のスクリーンには、AIが提示する学習ペアワークのマッチング表が映っていた。

性格診断、得意分野、苦手単元を元に、ディスカッション最適ペアが自動で組まれていく。

(ペアまでAIが決めるのか……!)

「……すごいっすね……」

ゴンドウが呆けたように呟くと、ウルシベは柔らかく首を傾げた。

「でもね、ゴンドウさん。AIで“情報”は身につきます。けど、“教養”は、人が教えるものなんですわ」

ウルシベの声は穏やかだったが、その奥には、冷たく研ぎ澄まされた刀のような光があった。

(情報と……教養……)

ゴンドウはその言葉を噛み締めながらも、息苦しさを覚えていた。

この予備校には、付け入る隙がない──
そう思わずにはいられなかった。

教室を出ると、廊下はしんと静まり返っていた。

ゴンドウは廊下の突き当たりに設置された、最新型のサーマルカメラ付き顔認証システムに気づき、思わず立ち止まった。

「……これ、何ですか?」

ウルシベは微笑んだ。

「出欠管理ですよ。ここを通るだけで、AIが顔認証し出席記録を付けます。体温も測定するので、微熱があればすぐに保護者に連絡が行きます」

「へ、へぇ……」

(完全に管理社会やな……いや、やなじゃない、俺は関東人だ……)

ウルシベはさらに続ける。

「教室ごとの入退室もログ化されていて、どの時間にどの生徒がどの自習室で何分間勉強したかまで記録しています。それが保護者用のアプリでリアルタイムに見られる仕組みなんです」

「親も見られる……?」

「ええ。“今日は数学に120分取り組んで、弱点だったベクトルの演習問題をAIで78問解きました”と。全部、即座に保護者のスマホに通知されます」

ゴンドウは思わず苦笑いした。

「どこぞのホストのLINE営業よりマメっすね……」

ウルシベは笑い声を立てないまま、目だけで笑った。

「保護者は安心し、生徒は逃げられない。結果、学力は伸びる。システムとは、そういうものです」

そう言って歩みを進めた漆部の背中は、和装でありながらも巨大企業のCEOのように威圧感があった。

階段を下り、再びエントランスホールへ。

大理石調の床に、生徒たちのスニーカーの足音が乾いて響く。

その光景を見渡しながら、漆部はふと呟いた。

「AIで学力は作れます。でも、人間性は作れない。そこは、我々人間の教師の領域です」

ゴンドウは、その言葉を反芻しながらも、心の奥で思った。

(……ここには付け入る隙がない。教材営業?名簿販売?教師の引き抜き? どれも無理だ……)

「さて、ゴンドウさん」

ウルシベが振り向き、ふっと笑った。

「今日は長い時間、ありがとうございました。夜は、こちらの懐石を予約しております。ぜひ斑鳩の味を堪能してください」

「い、いや……恐縮です……」

「ご遠慮なさらず。お泊まりの宿には、夜伽草紙や源氏物語の写本も置いてあります。どうぞ、ごゆっくり」

ウルシベの声には、柔らかいのに抗えない力があった。

(……なんなんだこの人は……)

AI、管理システム、問題自動生成、学習ログ、将来シミュレーション──
どれもが圧倒的で、そして、冷たく美しかった。

(……これが、“西の医専”……)

その夜。

旅館の部屋で、ゴンドウは一人、冷えた缶ビールを口に運びながら天井を見つめた。

(付け入る隙なし、か……)

窓の外には、斑鳩の漆黒の闇と、虫の声だけがあった。

第4話へつづく