第4話からのつづき
カンゾウの浪人コースの初日、島田タクミが教室を見回して言う。
「お前ら、全員“落ちこぼれ”だ。だが、見方を変えれば、“落とされた”んじゃない。自分で勝手に落ちただけだ」
このセリフにムカッときた村瀬カイト。
夕方、塾長室に文句を言いにいく。
「言い方ってもんがあるんじゃないですか?」
「おっ、君はどこ中?」
「K中。で、K高に内部進学です」
「おお、“元・神童”だな?」
「……」
「今のお前を見て言ったんだ。“元”ってな」
カイトは顔を真っ赤にして塾長室を出ていく。
カイトは、高校では有名な存在だった。
中学でK高にトップ合格。
「神童」と呼ばれた過去がある。
だが──それはもう、過去の話だった。
高校へはそのままエスカレーター式で進学。
しかし、ゲームとSNSに明け暮れ、成績は下落の一途。
今や、模試の判定はE判定のオンパレード。
なのに、セルフイメージだけは異常に高い。
──俺はまだ本気出してないだけだ。
──やればできる。俺は“神童”だった。
──東大以外なんて、考えられない。
数日後──
再び、塾長室を訪れるカイト。
「塾長、やっぱり納得いかないんですけど…」
椅子にふんぞりかえり紙巻きタバコの煙を吐き出しながらタクミは言う。
「神童ってのはな、チヤホヤされてる間に、漢文も古文も忘れる。気がつきゃ、偏差値45。だが口癖は“本気出せばいける”。そういう奴、今年はウチに4人ほどおるわ」
カイトの表情がこわばる。
「プライドは高い、でも参考書は開かない。お前が神童だったのは、“社会”というフィールドでまだ勝負してないからだよ。“受験”は社会だ。実力も結果も丸見えだ」
どこまでも図星を突かれるカイト。
一方で、タクミの言葉はなぜか頭から離れない。
「K高って、東大に行って当たり前だと思ってんだろ?」
タクミは、にやりと笑って言った。
「違いますか?」と、カイトは眉ひとつ動かさずに返した。
「いや違わないさ。──お前みたいなの、毎年いるんだよ。『俺はできる』『今は本気出してないだけ』『その気になれば東大くらい』ってな」
タクミは、スナックの店名が印刷されている100円ライターで紙巻きタバコに火をつけ、銀座のクラブの成金客のような態度でふんぞり返った。
「……で? どこ受けたんだっけ?」
「東大と、早稲田の政経と慶應の経済です」
「見事に全部、落ちたんだよな」
「……はい」
「なるほど、潔い」
タクミは、机の端に置かれた模試の成績表を見ながら言った。
「ところで、お前、今の偏差値、いくつだ?」
「……現代文が59で、英語が……52くらい……」
「それ、東大どころか“東北学院大”でも危ういぞ」
カイトの目がわずかに揺れた。
「お前さ、“過去の自分”に囚われすぎなんだよ」
「……でも、昔はできたんです」
「“昔”な。で、今は?──ビリから数えた方が早いんだろ?」
「……っ」
「お前さ、“昔の成績”で飯食ってんの? “元・神童”って肩書きで大学入れるなら、世の中もっと簡単なんだよ」
「……」
「いいかカイト。“勉強”ってのは“今”するもんなんだよ。“昔できた”は、“今できない”の言い訳にしかならねぇ」
タクミの言葉が、胸に刺さる。
──それでも。
──それでも、俺は……!
その日から、カイトは変わった。
最初は悔しさでいっぱいだった。
「何で俺が……こんなこと、言われるんだ……」
だが、解ける問題が増えていくうちに、少しずつ自分を直視する勇気が育っていった。
「……まあ、東大が全てじゃないか」
それでも模試の結果が出るたび、心のどこかがチクっと痛んだ。
──やっぱり、俺は神童じゃなかったのか?
「いいか、お前が目指してたのは“特等席”かもしれねぇ。でも、席ってのは、どこに座ったかじゃない。座ったその場所で何を話すかだよ」
タクミの言葉に、初めてカイトはうなずいた。
そして、受験本番。
早慶はまたも不合格だったが──
明治大学・政治経済学部、合格。
その通知を見たとき、カイトは静かにこう呟いた。
「……まぁ、上出来だろ」
ほんの少しだけ、誇らしかった。
「……お前、ちょっと“人間”になってきたな」
「それ、どういう意味ですか」
「“神童”は、案外“人間”になるのが遅いんだよ」
──あのまま2浪しても、腐っていたかもしれない。
──あのまま東大にこだわっても、自分を見失っていたかもしれない。
「……人間、どっかで折り合いつけるもんだな」
帰り道、缶コーヒー片手に空を見上げながら、カイトは笑った。
そして最後に、カンゾウの塾長室で、あの言葉を思い出す。
「お前さ、ゲームばっかしてたんだって? じゃあ、人生ってゲームも、そろそろリスタートしてみな」
そうして、村瀬カイトは前に進み始めた。
「明治に決めたのは、逃げじゃない。“納得”だ。たぶん……“神童”だった頃の自分が、今の俺を見たら、笑うだろうな。」
でも、たぶん──
「“神童”だった俺より、今の俺のほうがずっといい顔してる気がするんだよ」
カイトはそう呟き、一気に残りの缶コーヒーを飲み込んだ。
タクミは歌舞伎町から少し離れたおでんを出すスナックにいた。
おでんが盛られた皿の前に独り。
牛すじ、餅巾、そして最後に、ちくわぶ。
「ちくわぶってのはな、最初は誰も頼まねぇ。だが煮込まれて味が染みた頃、たまに主役になるんだよ」
紙巻きタバコの煙をふーっと吐き出す。
「ヤツは……少し煮込んで、ようやく人間になれたってことか」
第7話へつづく