第6話からのつづき
──秋。
塾長室に、菓子折りが届いた。中には、銀座・虎屋の特製羊羹。箱の隅には小さな名刺。
《左海歯科医院 院長 左海達夫》
「ほう…ついに来たか」
島田タクミは、椅子にふんぞり返りながら、タバコに火をつけた。
左海シュンスケ──
都内の名門男子進学校に通う高校3年生。
中学受験では灘中にも合格していたという逸材。今の偏差値は72。
どの模試でも東大理科二類や地方の国公立医学部でA〜B判定を叩き出す。
だが──なぜか「歯学部志望」。
理由は明確だった。
「父の医院を継ぎたい。小さい頃から、歯医者という仕事に親しみがあるんです」
──そんなある日。
銀座の高級クラブ「沙羅双樹」の個室にタクミの姿があった。
「塾長…あいつを、なんとかセガレを医学部志望に変えていただけませんか…」
西園歯科医院の院長・達夫が頭を下げた。
「息子が歯医者になりたいという気持ちは嬉しいんです。でも…今の時代、歯医者は過剰です。正直、あと10年持つかどうか…それならば、病院に改装して、あいつには医者になってもらったほうが…」
タクミはニヤリと笑い、グラスに注がれたブランデーをグイと飲み干した。
「了解しました。四国式説得術で、いってみましょうか」
数日後、塾長室に呼び出されたシュンスケ。
「お前さ。成績、東大の理III以外ならどこでも行けそうじゃねぇか」
「はぁ…まあ、模試の判定にはそう出てます」
「なのに、なぜ歯学部だ?」
「父の医院を継ごうと思って」
「立派だな。でも、お前、四国って知ってるか?」
「え?」
「俺の田舎だ。──四国じゃな、納豆は食わん。“東の食い物”じゃと思っとる。臭い、ネバい、気持ち悪い。だが、食わず嫌いではいかん。時に、臭いものほど真理をつくんだよ」
「はあ…?」
タクミはタバコをくゆらせながら言った。
「歯医者ってのはな、毎日が“納豆のようなヨダレ地獄”だ」
「……え?」
「想像してみろ。ババァが口をアーーーンと開けて、“ヨダレが納豆のみてぇにダラーッ”と糸を引いている。お前はそこに、素手で手を突っ込んで、虫歯を削るんだぞ。な? これ、毎日だぞ?」
シュンスケ、フリーズ。
「他にもいるぞ。入れ歯の裏にカス詰まらせたジジィとか、口の中でガム噛んでるみたいに歯垢が溜まったやつとか…な?」
「……」
「医者ならまだ、患者とはモニター越しに話せる。“距離”がある。でも歯医者は違う。“近距離戦”だ。毎日、“納豆臭の最前線”だ」
「……っ」
「お前さ、ほんとにそれ、やりたいのか?」
シュンスケの目が揺れる。
「いいか、開業医の息子ってのは、跡を継がなきゃって思いがちだ。だが、その歯科医院、10年後もあるのか? 親父はそう言ってたぞ?」
「……え?」
「息子が医者になれば、病院に改装しようと思ってるってな。お前が跡継ぐ気満々だから、言い出せなかったんだとさ」
シュンスケの顔が青ざめる。
タクミは静かに、そして狡猾に言った。
「医者になれ。医者ってのはな、歯医者より距離があって、女にもモテる。選べる人生が広がるぞ。」
「……。」
「大卒の中でも、医学部卒は別格だからな」
その夜、シュンスケは家に帰って、黙って歯を磨いた。
翌週の志望校記入欄──
「○○大学 医学部」と、しっかり書かれていた。
数ヶ月後、合格通知が届いた。
タクミは、羊羹をかじりながら、ふんぞり返って笑う。
「ま、歯医者も悪くねぇが──あれはちくわぶみてぇなもんだ。“真ん中”じゃねぇ。
お前には、もっと味のしみた“大物”を目指してもらわにゃな」
第9話へつづく