第26話:自分を殺す勇気(後編)

前回から一週間後。

Zoomの接続音が鳴り、再び画面がつながる。
菊池由衣(きくちゆい)の表情は、少しだけ柔らかくなっていた。

「……あの後、もう一度脚本を書き直してみたんです」

「そうですか。どんな気持ちで?」

ユイは少し考え、答えた。

「“削る勇気”って言葉がずっと残ってて。でも、いざ削ろうとすると、自分が消えていくようで……怖かったです」

Wのフクロウアバターが静かにうなずく。

「自然なことです。誰だって最初は“自分を見せたい”から書く。問題は、その“見せたい”が“伝わらない”瞬間にどうするか、です」

由衣は小さく息を吸い、画面を見つめた。

「どうすれば、伝わるんでしょうか?」

Wは一瞬だけ間を置いてから、ゆっくりと語り始めた。

「黒澤明監督が、北野武さんにこう言ったそうです。“ラッシュを観て、一番見せたいところをカットしろ”、と」

ユイの眉が動いた。

「……一番、見せたいところを?」

「はい。見せたいところというのは、たいてい“作者が一番酔っている部分”です。そこをカットすると、物語の呼吸が変わる。観客に“余白”が生まれるんです」

ユイは思わずノートにメモを取った。

「でも、そんなの……勇気がいりますね」

「そうですね。けれど、“見せたい自分”を一度殺さなければ、“生きて届く物語”にはならない」

フクロウのアバターが揺れる。
ユイは次の言葉を待った。

「村上春樹も、似たようなことをしています。彼は最初のドラフトを、朝四時から数時間――一気呵成に書き上げる。その後、作品から離れて、冷却期間を置く。そして“鬼のように”推敲を重ねる。書くときは感情のままに、削るときは理性で。その繰り返しです」

ユイは小さく笑った。

「私、書くときも削るときも、ずっと感情でやってました」

「多くの人がそうです。でも、“削る”は破壊ではありません。研ぎ澄ます作業なんです。」

ユイは少しだけ身を乗り出した。

「ロラン・バルトという思想家が言いました。“作者の死”と。作品は、作者の意図から解き放たれたとき、初めて読者のものになる。つまり、“削る勇気”とは、“自分を殺す勇気”なんです」

ユイの手が止まり、ペン先が宙で震えた。

「……自分を殺す勇気」

「そう。自分を殺すことで、初めて“主人公”が生きる。あなたの代弁者ではなく、あなたが見た世界そのものが語り始めるんです」

ユイはしばらく黙り、そして小さくうなずいた。

「……もう一度、書いてみます。今度は、“私じゃない主人公”で」

「それが、あなたの第二稿です」

Wの声には、どこか柔らかい笑みが滲んでいた。
ユイもほっとしたように笑い返す。

「先生、ありがとうございます。なんか、やっと“次”に進めそうです」

Zoomの画面がフェードアウトする。
静けさが部屋に戻る。

和波知良(わなみかずよし)の部屋。
厚手のカーテンの隙間から、冬の光がわずかに差し込んでいる。

テーブルの上には、福砂屋のザラメカステラと、淹れたてのエスプレッソ。

スマホが震えた。
短いメール。

書き直してみます。
今度は、“私じゃない主人公で”。
菊池由衣

ワナミは画面を閉じ、カステラを切り分けた。
ナイフがザラメを砕く音が、やけに心地よく響く。

「……削る勇気、か」

エスプレッソを口に含む。
苦味のあとに、かすかな甘さが追いかけてくる。
その瞬間、彼は微かに微笑んだ。

「エゴを削っても、魂は残る」

外では雪が降り始めていた。
その白い粒が、音もなく夜の静けさに溶けていく。

つづく