第9話 :石川ユリナの転身

第8話からのつづき

──初夏の午後。

陽光がまぶしく、青々とした木々の影がアスファルトに揺れている。

島田タクミはカンゾウに向かう道を歩いていた。
煙草のフィルターを唇に挟み、片手で100円ライターを弄びながら。

保育園の前を通りかかる。

門前では、子どもたちを送り届ける母親たちが談笑し、保育士たちは笑顔で児童たちを迎え入れていた。

「ほら、行ってらっしゃい!」

「泣かないで、大丈夫よ!」

そんな声が響く中、タクミは目を細め、タバコの煙を一筋吐き出した。

「うちの生徒たちも、少し前はこんなガキだったんだろうな……」

無邪気に笑う子どもたち。

こいつらも将来は、名門大学を目指し、中にはカンゾウに通うのかもな。
そんなことをボンヤリと考えていた。

だがその時──

「あのオジちゃん怖い! テレビに出てた893のおじさんみたい!」

鋭い子どもの声が耳を刺す。

見ると、三つ編みの女の子が指を差し、涙を浮かべている。

「は?」

タクミは一瞬何が起こったかわからなかった。

「どちら様ですか?」

若い保育士が駆け寄る。

さらに二人、三人と増えていく。

明らかに警戒の視線。母親たちも遠巻きにタクミを見つめ、ヒソヒソと囁き合っている。

「ち、違うんや、オレはただ通りがかりの……」

「ご父兄の方ですか?」

「保護者でなければ立ち入りをご遠慮ください。」

「それに路上での喫煙はご遠慮ください!」

タクミの口から煙が漏れる。タバコの火を慌てて指で潰すが、手は震えている。

「ち、ちがう! 通りすがりなんだ! 別に怪しいもんじゃ──」

「保護者以外はここで立ち止まらないでください!」

「なんなんですか!? あなたは!」

園長と思しき年配の女性も鋭い視線を向けてくる。

「くそ……」

釈明もままならず、彼はその場を足早に離れる。

近くのコンビニに駆け込む。だが、カウンターにおでんはない。

「ついてねえ……」

仕方なくタバコを買おうとカウンターの奥を見る。

だが、探していたセブンスターが品切れ。

「くそっ、本当に今日はついていないぜ……」

その時、背後からひそひそ声が聞こえる。

「あ、さっきの人よ」

「警察に通報した方が……」

タクミは慌てて店を飛び出し、初夏の空を仰いだ。

──そして、夕方。

カンゾウの塾長室のドアが、コンコンと控えめにノックされた。

「失礼します。石川ユリナです。大学の相談、いいですか?」

タクミは、ふんぞり返ったまま、ゆっくりと顔を上げた。

制服姿の女子生徒。
目鼻立ちははっきりしていて、明るく礼儀正しい。

成績は上位、将来の夢は──
「保育士です」

そう言った瞬間、タクミの眉がピクリと動いた。
クソっ、また保育士かよっ!

ライターでタバコに火をつけ、煙を吐き出したタクミはユリナに尋ねる。

「……子どもが好きだから、ってやつか?」

「はい、小さい子って、素直で可愛くて癒されるんです」

タクミのコメカミに青筋が浮き立つ。

「だったら家で飼ってろ!」

「えっ?」

「子どもが可愛い? ──可愛いのはな、他人の子を遠くから見てる時だ”だ」

タクミはタバコをクリスタル製の灰皿に押し付けた。

「いいか、現場は戦場だ。砂場で泥んこ遊びさせたら“服が汚れて洗濯が大変だ”って怒鳴り込む親が来る。牛乳出しただけでアレルギーだ何だってクレームが飛ぶ。そのくせ、朝は遅刻、迎えはギリギリ、連絡帳は読まない。そんで“うちの子、トイレがまだなんです~”って、5歳児のケツを拭かされんだぞ」

ユリナの顔から血の気が引いていく。

「でも……保育士の仕事は、人の役に立てる仕事だと思って……」

「役に立ちたいなら、自分の命を守れ。職員室じゃ御局様が睨んでんだ。お前のミスを見つけては、“他の先生が迷惑してるのよ”って陰で言う。必要な情報は伝えられず、指示は飛んでこず、気づいたら雑用だけ山盛りだ。昼食誘われない? それ、ハブられてるぞ。“空気読んで自主退職しろ”って雰囲気作られてんだ。若い子ほど狙われる」

「……。」

「子どもは可愛い。だが、その周囲は全部地雷だ」

「……でも、他に何ができるか、分からなくて……」

タクミは、机に足を乗せ、ユリナの顔をじっと見た。

「お前、数学の成績、悪くないな?」

「え? あ、はい……好きです」

「じゃあ、お前は“AIエンジニア”になれ」

「……はい?」

「今、いちばんゼニになる仕事だ。パイソンって知ってるか?」

「えっと……ヘビ、ですか?」

「……ヘビは家で飼ってろ!!」

「ひっ!」

「いいか。AIってのはな、機械が“学習”するんだ。お前みたいに真面目で、こつこつ積み重ねられるタイプは向いてる。パイソンってプログラミング言語を理解を使えるプログラマーもまだまだ少ない。しかも、今どきのAI開発ってのは、ただの理系じゃない。哲学、言語、心理、倫理──文系の素養も要る。それに、AIには教育の要素もある。保育士よりよっぽど子どもみたいな存在だぞ。機械の赤ちゃん、育てるみたいなもんだ」

ユリナの目が少し光を帯びた。

「ほう……ちょっと興味湧いてきたな?」

「だったら、早稲田の“先進理工学部”か、慶應の“情報工学科”を狙え。女子は少ない。だから目立つ。しかも、女子ってだけで企業は取り合いだ。AIエンジニアになれば、20代で年収1000万も夢じゃない。──そのゼニで、自分の子ども、3人くらい飼え」

「……あの、“飼う”って言い方……」

「いいから目指せ。文系思考の理系女子。今、いちばん“売れる”のはそこだ」

──その日から、ユリナの人生は変わった。

目の色を変えて猛勉強を開始した。

──翌年の3月。

彼女は慶應義塾大学・理工学部 情報工学科に合格。

大学入学後のユリナは、パイソンを勉強し、統計と格闘し、深層学習をかじって、人工知能の基礎を叩き込んだ。

大学でプログラムを組みながら、彼女はふと思った。

──“子どもは好き”
──でも、私の“好き”は、私だけのものにしておいてよかったかもしれない。

研究室の片隅で、AIのニューラルネットワークに「ありがとう」と入力した時、画面に出てきたのは──

「あなたのおかげで学習できました」

思わず、ユリナは笑った。

──そして、ふと思い出した島田タクミの言葉。

「保育士? だったら、家で飼ってろ!」

第10話へつづく