第5話:IMSプログラム

午後の斑鳩塾。
エントランスを進んだ正面の壁に、荘厳なタペストリーのように並ぶ写真とパネルがあった。

ゴンドウは、思わず足を止めた。
目の前に広がるのは、医学部に合格した卒業生たちの“顔”だった。

いや、“顔”というよりも──

(これは……“名鑑”だな……)

一人ひとりの写真の横には、合格大学名だけではなく、
【○○大学医学部卒業 → ○○病院勤務 → ○○大学医学研究科博士課程 → 米国留学 → 現在○○医科大学講師】
など、現在に至るまでの経歴が詳細に記されていた。

そこには、臨床医だけでなく、基礎研究者、海外で活躍する医師、国際医療支援に従事するOBの姿もあった。

写真に映る誰もが、誇りに満ちた表情をしている。

(……ここを出たやつらは……“医学部に入った”ってだけじゃねぇ……)

──“医師として生きてる”のだ。

ふと、近くに立っていた受付の女性スタッフが微笑んだ。

「皆さん、ここで学んだことを一生の誇りに思ってくださっているんですよ」

ゴンドウは曖昧に笑い返した。

(いや……笑ってる場合じゃねぇ……。ここまでやってんのかよ……)

そのとき、背後から静かな足音が聞こえた。
振り返ると、館長・ウルシベが立っていた。

黒地に細かな市松模様が織り込まれた上質な紬の着物に、灰銀色の羽織。足元は白足袋に黒の鼻緒の雪駄。

柔らかな京都弁を思わせる言葉遣いと相まって、まるで茶会から抜け出してきたかのような、静かで隙のない佇まいだった。

「驚かれましたか?」

「……いやぁ……ただの“合格者掲示板”じゃないですね。あれはもう……“医師名鑑”ですよ」

ウルシベは目を細めて笑った。

「合格は、我々のゴールではありませんから」

「……はぁ……」

曖昧に頷くゴンドウに、ウルシベはゆっくりと続けた。

「もしよろしければ……少し、外へ出てみませんか?」

「え?」

「今日、ちょうど見学プログラムを実施している病院があります。よければ、ご覧になりますか」

そう言うと、館の玄関前へと歩き出す。
外には、漆黒に光るレクサスLSハイブリッドが停まっていた。
運転席には、斑鳩塾のスタッフが静かに待機している。

ウルシベ漆部が後部座席のドアを開け、軽く手を添える。

「どうぞ」

ゴンドウは、後部座席の奥へと身を滑り込ませた。

その隣に漆部も静かに腰を下ろす。
車は無音のまま滑るように発進した。

後部座席の窓から見えるのは、瓦屋根が連なる古都の町並みと、わずかに黄色く色づき始めた田畑。

その奥に、緑の山並みがどこまでも続いている。

(……ここに来てから……驚かされっぱなしだ……)

隣に座るウルシベの横顔は、相変わらず穏やかな笑みをたたえていた。

だが、その奥に潜む“何か”を、ゴンドウはまだ理解していなかった。

レクサスは滑るように病院の正面ロータリーへと入っていった。
運転席のスタッフがドアを開けると、ゴンドウは息を呑む。

ウルシベは、黒の和装姿のままゆったりと降り立ち、病院の入り口へと向かう。

その背に続きながら、ゴンドウは視界に広がる光景に目を奪われた。

ロビーには、十数人の受験生たちが整列していた。
明らかに白衣の袖をぎこちなく通した若者たち──
スーツ姿の浪人生らしき者もいれば、制服姿の高校生も混ざっている。

皆、上から見学用の白衣を羽織り、胸には「イカルガIMS PROGRAM」と印字されたネームプレートが下がっていた。
一人ひとりが真剣な面持ちで、資料ファイルを抱え、メモを取るペンを握りしめている。

ウルシベが柔和な表情で説明する。

「IMS──Individual Medical Shaping Programです。私どもが独自に構築した、人間教育と医療教育の統合プログラムでしてな」

「い、インディビジュアル…?」

「個々の。つまり、一人ひとりに必要な医療観、倫理観、そして社会貢献意識を涵養するプログラムです。ただ学力をつけるだけでは、現代医療の現場では通用しませんので」

言葉の意味を咀嚼する暇もなく、ロビー奥の自動ドアが開いた。
そこには、白衣姿の若い医師と看護師が立っており、受験生たちを案内している。

「本日のプログラム内容は──」

ウルシベは指を折った。

「外来、手術室、検査室などの施設見学、医療シミュレーション体験、血圧測定やエコー体験、救急車試乗、そして医師や医療スタッフとの質疑応答です」

ゴンドウは思わず口を開けた。

「まるで……医大のオープンキャンパスみたいですね……」

「いいえ」

ウルシベは目を細め、和装の袖を静かに揺らした。

「これはオープンキャンパスなどという“お試し”ではありません。彼らは、将来赴任するそれぞれの地域で、医療人として生きる覚悟を“約束”しているのです。大学側も、地域医療を担う志を持つ彼らを高く評価してくださいます。面接重視入試が導入されて久しいですが……我々は、面接で語れる“本物の経験”を提供しているだけです」

──面接で語れる“本物”。

ゴンドウは思った。

(ただの面接練習や、嘘八百の志望理由書じゃない……)

実際に病院に足を運び、現場を見て、医療従事者と話すのだ。

(そりゃあ、医大の面接官だって一目置くわな……)

病院内の廊下を進む受験生たちが、順番に血圧計を巻き、笑顔で医師に質問をしている。

「先生、どうして内科を選ばれたんですか?」

「救急車で搬送されるとき、家族にはどのような説明を?」

「血圧の基準値って、日本と海外で違いはありますか?」

真剣なまなざし。
そして、メモを取る手は、震えることなく迷いがない。

ウルシベが小さく笑った。

「ここにいる受験生たちは、全員が合格するわけではありません。しかし──挑戦を諦める子は、一人としておりません」

ゴンドウは絶句した。

目の前で展開されるのは、ただの進学指導ではない。
未来を背負う若者たちへの、静かで重い“覚悟”の植え付けだった。

(……勝てねぇよ、こんなの。教材営業だの、生徒情報だの──そんなセコい話で入り込める場所じゃねぇ……)

目を伏せるゴンドウの耳に、最後にウルシベの声が落ちてきた。

「さ、帰りましょうか。次は、当塾の学生寮をご覧いただきましょう」

その横顔には、柔和な笑みが浮かんでいたが──
ゴンドウには、その奥に、決して踏み込めない深い深い闇が見えたような気がした。

つづく