午後の斑鳩塾。
エントランスを進んだ正面の壁に、荘厳なタペストリーのように並ぶ写真とパネルがあった。
ゴンドウは、思わず足を止めた。
目の前に広がるのは、医学部に合格した卒業生たちの“顔”だった。
いや、“顔”というよりも──
(これは……“名鑑”だな……)
一人ひとりの写真の横には、合格大学名だけではなく、
【○○大学医学部卒業 → ○○病院勤務 → ○○大学医学研究科博士課程 → 米国留学 → 現在○○医科大学講師】
など、現在に至るまでの経歴が詳細に記されていた。
そこには、臨床医だけでなく、基礎研究者、海外で活躍する医師、国際医療支援に従事するOBの姿もあった。
写真に映る誰もが、誇りに満ちた表情をしている。
(……ここを出たやつらは……“医学部に入った”ってだけじゃねぇ……)
──“医師として生きてる”のだ。
ふと、近くに立っていた受付の女性スタッフが微笑んだ。
「皆さん、ここで学んだことを一生の誇りに思ってくださっているんですよ」
ゴンドウは曖昧に笑い返した。
(いや……笑ってる場合じゃねぇ……。ここまでやってんのかよ……)
そのとき、背後から静かな足音が聞こえた。
振り返ると、館長・ウルシベが立っていた。
黒地に細かな市松模様が織り込まれた上質な紬の着物に、灰銀色の羽織。足元は白足袋に黒の鼻緒の雪駄。
柔らかな京都弁を思わせる言葉遣いと相まって、まるで茶会から抜け出してきたかのような、静かで隙のない佇まいだった。
「驚かれましたか?」
「……いやぁ……ただの“合格者掲示板”じゃないですね。あれはもう……“医師名鑑”ですよ」
ウルシベは目を細めて笑った。
「合格は、我々のゴールではありませんから」
「……はぁ……」
曖昧に頷くゴンドウに、ウルシベはゆっくりと続けた。
「もしよろしければ……少し、外へ出てみませんか?」
「え?」
「今日、ちょうど見学プログラムを実施している病院があります。よければ、ご覧になりますか」
そう言うと、館の玄関前へと歩き出す。
外には、漆黒に光るレクサスLSハイブリッドが停まっていた。
運転席には、斑鳩塾のスタッフが静かに待機している。
ウルシベ漆部が後部座席のドアを開け、軽く手を添える。
「どうぞ」
ゴンドウは、後部座席の奥へと身を滑り込ませた。
その隣に漆部も静かに腰を下ろす。
車は無音のまま滑るように発進した。
後部座席の窓から見えるのは、瓦屋根が連なる古都の町並みと、わずかに黄色く色づき始めた田畑。
その奥に、緑の山並みがどこまでも続いている。
(……ここに来てから……驚かされっぱなしだ……)
隣に座るウルシベの横顔は、相変わらず穏やかな笑みをたたえていた。
だが、その奥に潜む“何か”を、ゴンドウはまだ理解していなかった。
レクサスは滑るように病院の正面ロータリーへと入っていった。
運転席のスタッフがドアを開けると、ゴンドウは息を呑む。
ウルシベは、黒の和装姿のままゆったりと降り立ち、病院の入り口へと向かう。
その背に続きながら、ゴンドウは視界に広がる光景に目を奪われた。
ロビーには、十数人の受験生たちが整列していた。
明らかに白衣の袖をぎこちなく通した若者たち──
スーツ姿の浪人生らしき者もいれば、制服姿の高校生も混ざっている。
皆、上から見学用の白衣を羽織り、胸には「イカルガIMS PROGRAM」と印字されたネームプレートが下がっていた。
一人ひとりが真剣な面持ちで、資料ファイルを抱え、メモを取るペンを握りしめている。
ウルシベが柔和な表情で説明する。
「IMS──Individual Medical Shaping Programです。私どもが独自に構築した、人間教育と医療教育の統合プログラムでしてな」
「い、インディビジュアル…?」
「個々の。つまり、一人ひとりに必要な医療観、倫理観、そして社会貢献意識を涵養するプログラムです。ただ学力をつけるだけでは、現代医療の現場では通用しませんので」
言葉の意味を咀嚼する暇もなく、ロビー奥の自動ドアが開いた。
そこには、白衣姿の若い医師と看護師が立っており、受験生たちを案内している。
「本日のプログラム内容は──」
ウルシベは指を折った。
「外来、手術室、検査室などの施設見学、医療シミュレーション体験、血圧測定やエコー体験、救急車試乗、そして医師や医療スタッフとの質疑応答です」
ゴンドウは思わず口を開けた。
「まるで……医大のオープンキャンパスみたいですね……」
「いいえ」
ウルシベは目を細め、和装の袖を静かに揺らした。
「これはオープンキャンパスなどという“お試し”ではありません。彼らは、将来赴任するそれぞれの地域で、医療人として生きる覚悟を“約束”しているのです。大学側も、地域医療を担う志を持つ彼らを高く評価してくださいます。面接重視入試が導入されて久しいですが……我々は、面接で語れる“本物の経験”を提供しているだけです」
──面接で語れる“本物”。
ゴンドウは思った。
(ただの面接練習や、嘘八百の志望理由書じゃない……)
実際に病院に足を運び、現場を見て、医療従事者と話すのだ。
(そりゃあ、医大の面接官だって一目置くわな……)
病院内の廊下を進む受験生たちが、順番に血圧計を巻き、笑顔で医師に質問をしている。
「先生、どうして内科を選ばれたんですか?」
「救急車で搬送されるとき、家族にはどのような説明を?」
「血圧の基準値って、日本と海外で違いはありますか?」
真剣なまなざし。
そして、メモを取る手は、震えることなく迷いがない。
ウルシベが小さく笑った。
「ここにいる受験生たちは、全員が合格するわけではありません。しかし──挑戦を諦める子は、一人としておりません」
ゴンドウは絶句した。
目の前で展開されるのは、ただの進学指導ではない。
未来を背負う若者たちへの、静かで重い“覚悟”の植え付けだった。
(……勝てねぇよ、こんなの。教材営業だの、生徒情報だの──そんなセコい話で入り込める場所じゃねぇ……)
目を伏せるゴンドウの耳に、最後にウルシベの声が落ちてきた。
「さ、帰りましょうか。次は、当塾の学生寮をご覧いただきましょう」
その横顔には、柔和な笑みが浮かんでいたが──
ゴンドウには、その奥に、決して踏み込めない深い深い闇が見えたような気がした。
つづく