第6話:寺と農家の学生寮

IMSプログラムの病院見学を終えたゴンドウは、まだ興奮冷めやらぬ顔でレクサスLSの後部座席に乗り込んだ。

助手席には漆部館長が座っている。
運転席には、和装のウルシベに合わせたかのように、黒スーツを着たスタッフが静かにシートベルトを締めた。

「いかがでしたかな、IMSは。」

「いやぁ……もう……参りました……。あれじゃあ、生徒の親御さんも大満足ですよ……」

ゴンドウは思わず笑いが漏れた。

「ふふ、ありがとうございます。では次に、学生寮をご覧いただきましょう」

「えっ、学生寮……ですか?」

(きた……。ついに斑鳩塾の本丸……!)

メディカルグリーンのように、シェフ常駐、ジム完備、マッサージやネイルも受け放題、そんな豪華施設をイメージして胸が高鳴る。

しかし──

レクサスは塾の方向とは逆へ進み、やがて田園風景へと入っていった。

青々と茂る稲穂が風に波打ち、遠くには低く重なる瓦屋根の集落。その奥に、歴史を刻む寺院の屋根が静かに横たわっている。

車は、築100年はあろうかという農家の前で止まった。

「こちらが、当塾の“寮”のひとつです。」

「……ひとつ……?」

助手席のウルシベが振り向き、柔らかく微笑む。

「当塾には、いわゆる“寮棟”はございません。こうして地域の農家さんやお寺さんに分宿して、生活しております。」

ゴンドウが降りると、農家の庭先では斑鳩塾のロゴ入りTシャツを着た若者たちが鍬を振るい、土を耕していた。高校生もいれば、浪人生とおぼしき年上の学生も混ざっている。

彼らは汗を光らせ、しかし漆部の姿を認めると、全員が鍬を置き、深々と頭を下げた。

「……お疲れさまです……!」

その声には恐怖はなく、尊敬と畏怖が入り混じっていた。

(……ジムもプールもない……鍬……?)

ゴンドウの頭が真っ白になる。

「体を動かすことは脳の血流を促します。また、農作業を通じて労働の喜びを学ぶことは、医師として人を支える基礎にもなりますから」

ウルシベは涼しい顔でそう語る。

「そ、そうなんですね……」

ゴンドウは額の汗を拭った。

さらに奥の寺院でも、学生たちが境内を雑巾がけしていた。白衣を着ている者、スーツ姿の浪人生らしき者、そして制服姿の高校生もいる。彼らもまた、ウルシベの姿を認めると一斉に手を止め、地面に額がつくほど深く頭を下げた。

「館長……おはようございます……!」

「ご苦労さまです」

ウルシベは静かに頷くだけだったが、その声には威厳が滲み出ていた。

(なんだこれは……。俺が知ってる予備校の“寮”じゃない……)

軽いめまいを覚えながら、ゴンドウは思った。

(鍬に雑巾……けど……なんだ……。逆に“本物”を見せられた気がする……)

彼の目には、汗を流す学生たちの横顔が、いつも東京で見ている予備校生たちよりも、なぜか逞しく、そして美しく映っていた。

農家での視察を終えると、漆部はゴンドウをさらに奥の寺へと案内した。

寺の本堂には、数名の斑鳩塾生が正座をしていた。袴姿の老師が中央に座り、目を閉じている。

「こちらでは、毎朝、坐禅の指導を受けさせております」

「坐禅……ですか」

ゴンドウは、畳の上で背筋を伸ばし、じっと黙考する塾生たちを見た。

(メディカルデラックスの早朝テストもきついが……ここは早朝から精神修行かよ……)

ウルシベが隣で静かに言った。

「人間の集中力は、肉体と精神のバランスによって発揮されます。どれほどAIやICT教材で最適化された学習を与えても、心が乱れていては知識は定着しません」

老師の読経が本堂に響く。
太い声が、木造の梁を震わせるようだった。

(理屈はわかるが……ここまでやるか……)

寺を後にすると、次は農家の母屋に通された。

囲炉裏を囲む木のテーブル。そこで、数人の塾生たちが質素な昼食を取っていた。
メニューは、採れたての小松菜と大根の煮物、麦飯、そして味噌汁。

「……これが、ここの昼食か?」

ゴンドウが思わずつぶやくと、ウルシベは微笑む。

「ええ。地産地消の新鮮な食材です。奇をてらった高級料理よりも、こうした自然の恵みを味わうことが、心と体を健康にし、学習の集中力を支えるのです」

食事をする塾生たちは、静かに箸を運び、時折「いただきます」「ごちそうさまでした」と小さな声を上げる。

(メディカルグリーンのフレンチシェフ常駐とは真逆……けど……この素朴さが、逆に“育ちそう”って感じだ……)

そんなことを考えていると、ひとりの塾生が食後の皿を下げながら、漆部に深く頭を下げた。

「館長、本日も美味しいご飯をありがとうございました」

「……うむ。感謝の心を忘れぬようにな」

そのやり取りを見て、ゴンドウは思った。

(ここじゃ、ウルシベは“館長”っていうより、“殿様”だな……)

農作業、寺での坐禅、そして質素な食事。

どれも、ゴンドウが予備校業界で見てきた贅沢至上主義とは正反対の世界だった。
だが、そのすべてに通底するのは──
(……この人間教育こそが、斑鳩塾の“武器”なんだろうな……)

帰り際、農家の前で漆部が立ち止まった。

「いかがでしたかな、当塾の“寮生活”は」

「いやぁ……参りました……」

ゴンドウの声は、すっかり力を失っていた。

レクサスに乗り込むとき、農作業をしていた塾生たちが再び鍬を置き、深々と頭を下げる。

その光景が、ゴンドウの胸に重く残った。

(俺はここじゃ、何も売れねぇな……)

車窓の外では、矢田丘陵の緑が夕陽に照らされ、黄金色に輝いていた。
その美しささえも、ゴンドウにはどこか畏怖の対象に見えた。