夜の病院見学を終えたゴンドウは、再びウルシベの黒塗りのレクサスに乗せられた。
「今宵は、少し遅くなりますが……よろしいでしょうか?」
柔らかな和装の袖を揺らし、漆部は微笑む。
車が止まったのは、法隆寺からもほど近い閑静な通り。
その奥に、暖簾を下ろした一軒の料亭があった。
老舗料亭『斑鳩荘』。
低い瓦屋根と白壁。玄関横には苔むした石灯籠が佇む。
灯籠の足元には、夏の夜を照らすように百合の花が活けられている。
玄関で草履を脱ぎ、畳廊下を進む。
行灯が柔らかい光を落とし、行き交う仲居たちの着物の裾がさらりと擦れる音が心地よい。
案内された個室の襖を開けると、眼前に広がったのは静謐な庭園だった。
水琴窟の涼やかな音が、ほの暗い座敷に透明な響きを落としている。
「今宵はこちらで」
ウルシベは、座敷奥の上座に腰を下ろした。
ゴンドウは「いやいや、そちらは……」と遠慮するが、漆部は首を横に振る。
「客人は上座です」
渋い漆塗りの卓に、すでに【文月の口取り三種盛り合わせ】が静かに並んでいた。
小鉢に盛られた鮎の甘露煮、白和え、夏野菜の胡麻和え。
どれもひと口ごとに、涼やかな苦味と淡い旨味が舌に広がった。
続けて、鯛茶巾真丈と帆立貝柱の煮物椀。
蒸気の向こうで、漆部は日本酒を手に取る。
銘は鷹長(たかちょう) 菩提酛仕込み。
淡い琥珀色の酒が漆塗りの杯に注がれる。
ゴンドウも盃を受け取り、一口含むと、口内にふわりと広がる米の旨味と、微かな乳酸の酸味が鼻腔を抜けた。
「……こりゃあ、旨いですね」
ゴンドウの呟きに、ウルシベは薄く微笑んだ。
「奈良は、日本酒の“はじまりの地”ですから」
畳の上で正座を崩さない漆部は、着物の袖を整えながら言葉を続ける。
「ゴンドウ様。“間”というものをご存知ですか?」
「……間、ですか?」
「はい。間合い、間隙、間断──茶道にも、能にも、剣術にも“間”があります」
鷹長をひと口含み、目を伏せるウルシベ。
「教育も、経営も、政治も同じです。“間”を外す者は滅びる。焦らず、怠らず、最適な間で打つ。それが勝利の秘訣です」
庭では、風に揺れる笹の葉がさわりさわりと音を立てていた。
次に運ばれたのは、伊賀肉の寿き焼。
薄く切られた霜降り肉を、熱した南部鉄器の鍋にくぐらせる。
芳醇な香りと、じわりと滲む甘い脂の匂いに、ゴンドウは無言で箸を伸ばした。
「……美味い」
呆けたように呟くゴンドウを見つめ、ウルシベの目が細くなる。
「相手に“余”を与えることも、大事です。力で屈するのではなく、“畏れ”を抱かせること。そうして相手は、自ら“従う”ようになります」
──何を言っているのか。
半分も理解できなかったが、旨い酒と旨い肉がゴンドウの思考を緩めていった。
「今宵は、これまでにいたしましょう」
襖の向こうには、すでに斑鳩塾の送迎車が待機していた。
「おやすみなさいませ、ゴンドウ様。……明日も、お時間いただけますね?」
月明かりに照らされた漆部の横顔は、微笑みを浮かべながらも、どこか恐ろしく映った。
つづく