第7話:斑鳩荘の夜

夜の病院見学を終えたゴンドウは、再びウルシベの黒塗りのレクサスに乗せられた。

「今宵は、少し遅くなりますが……よろしいでしょうか?」

柔らかな和装の袖を揺らし、漆部は微笑む。

車が止まったのは、法隆寺からもほど近い閑静な通り。
その奥に、暖簾を下ろした一軒の料亭があった。

老舗料亭『斑鳩荘』。

低い瓦屋根と白壁。玄関横には苔むした石灯籠が佇む。
灯籠の足元には、夏の夜を照らすように百合の花が活けられている。

玄関で草履を脱ぎ、畳廊下を進む。
行灯が柔らかい光を落とし、行き交う仲居たちの着物の裾がさらりと擦れる音が心地よい。

案内された個室の襖を開けると、眼前に広がったのは静謐な庭園だった。
水琴窟の涼やかな音が、ほの暗い座敷に透明な響きを落としている。

「今宵はこちらで」

ウルシベは、座敷奥の上座に腰を下ろした。

ゴンドウは「いやいや、そちらは……」と遠慮するが、漆部は首を横に振る。

「客人は上座です」

渋い漆塗りの卓に、すでに【文月の口取り三種盛り合わせ】が静かに並んでいた。

小鉢に盛られた鮎の甘露煮、白和え、夏野菜の胡麻和え。
どれもひと口ごとに、涼やかな苦味と淡い旨味が舌に広がった。

続けて、鯛茶巾真丈と帆立貝柱の煮物椀。
蒸気の向こうで、漆部は日本酒を手に取る。

銘は鷹長(たかちょう) 菩提酛仕込み。
淡い琥珀色の酒が漆塗りの杯に注がれる。

ゴンドウも盃を受け取り、一口含むと、口内にふわりと広がる米の旨味と、微かな乳酸の酸味が鼻腔を抜けた。

「……こりゃあ、旨いですね」

ゴンドウの呟きに、ウルシベは薄く微笑んだ。

「奈良は、日本酒の“はじまりの地”ですから」

畳の上で正座を崩さない漆部は、着物の袖を整えながら言葉を続ける。

「ゴンドウ様。“間”というものをご存知ですか?」

「……間、ですか?」

「はい。間合い、間隙、間断──茶道にも、能にも、剣術にも“間”があります」

鷹長をひと口含み、目を伏せるウルシベ。

「教育も、経営も、政治も同じです。“間”を外す者は滅びる。焦らず、怠らず、最適な間で打つ。それが勝利の秘訣です」

庭では、風に揺れる笹の葉がさわりさわりと音を立てていた。

次に運ばれたのは、伊賀肉の寿き焼。
薄く切られた霜降り肉を、熱した南部鉄器の鍋にくぐらせる。
芳醇な香りと、じわりと滲む甘い脂の匂いに、ゴンドウは無言で箸を伸ばした。

「……美味い」

呆けたように呟くゴンドウを見つめ、ウルシベの目が細くなる。

「相手に“余”を与えることも、大事です。力で屈するのではなく、“畏れ”を抱かせること。そうして相手は、自ら“従う”ようになります」

──何を言っているのか。

半分も理解できなかったが、旨い酒と旨い肉がゴンドウの思考を緩めていった。

「今宵は、これまでにいたしましょう」

襖の向こうには、すでに斑鳩塾の送迎車が待機していた。

「おやすみなさいませ、ゴンドウ様。……明日も、お時間いただけますね?」

月明かりに照らされた漆部の横顔は、微笑みを浮かべながらも、どこか恐ろしく映った。

つづく