今朝も、斑鳩の空は深い蒼に澄み渡っている。
古びた旅館の窓を開け放つと、庭先の苔むした石灯籠に朝日が当たり、まるで遠い昔から変わらぬ風景のようだった。
「結局、手ぶらで帰るだけかよ……」
浴衣姿のまま、ゴンドウはぼそりと呟く。
教材の営業も、名簿販売の提案も、講師引き抜きのアプローチも、まるで最初から見透かされていたかのように、すべてウルシベに軽やかにかわされている気がする。
(でも、何なんだろうな……この敗北感は……)
斑鳩塾は、ただ金で動いているわけではない。
生徒一人ひとりの育成哲学、地域医療との連携、そして政治家や医師会、大学上層部との深い繋がり。
(桁が違う……スケールも、理念も……)
ゴンドウは歯を磨きながら、自分が今まで渡り歩いてきた予備校業界が、いかに「小さな商売」でしかなかったかを思い知らされていた。
──その日の午後。
ゴンドウは最後の挨拶をするため、再び斑鳩塾を訪れていた。
玄関をくぐると、見慣れた受付の女性が柔らかく会釈する。
「ウルシベ館長がお待ちです」
案内された応接室には、いつもの和装姿のウルシベが座っていた。
「ゴンドウさん、お疲れさまでした。お口に合わないことも多かったでしょうが……」
「い、いえ……とんでもないです……」
ウルシベは微笑む。
「今日は、最後に少しだけ、お見せしたいものがあるのです」
「え……?」
「どうぞ、お足をお運びください」
廊下を歩く二人。
薄暗い木造廊下の先には、別棟へと続く渡り廊下があった。
(ここだけ、まだ来てなかったな……)
ウルシベはゆっくりと歩を進めながら語る。
「本日は、生徒たちの“総仕上げプレゼンテーション”の日でしてね」
「総仕上げ……?」
「ええ。入塾当初から積み上げてきた“医師としての言語力”と“社会への志”を、保護者の前で発表するのです」
渡り廊下を抜けた先には、小さな講堂のような建物があった。
扉を開けると、中は静寂に包まれていた。
檜の床。漆喰の白壁。障子から柔らかな光が差し込み、清浄な空気に満ちている。
壇上では、ひとりの男子生徒が立っていた。
真っ直ぐ前を見据え、穏やかな声で語っている。
「私は、将来 緩和ケア医になりたいと考えています。医療の力で救える命もあれば、救えない命もある。ですが、人として最後までその人らしく生きられるよう支えること。それも医師の大切な役割だと、私は思うのです」
ゴンドウは思わず息を呑んだ。
その瞳には迷いがなかった。
(ただの予備校生じゃない……こいつら、本当に“医者になる顔”してやがる……)
横で聞いていた漆部は、静かに微笑む。
「我々は、医学部合格者を育てているのではありません。医療を担う“人材”を育てているのです」
その言葉は、ゴンドウの胸に深く刺さった。
(……わかったよ、ウルシベ館長……。あんたらがやってることは、商売なんかじゃねぇ。教育ってのは、こういうことを言うんだな……)
壇上の男子生徒が一礼すると、会場からは控えめながらも温かな拍手が沸き起こった。
その音が、斑鳩の静謐な空気の中に、いつまでも心地よく響いていた。
つづく