第10話(終):骨抜きの帰還

斑鳩塾・講堂。

冷房の効いた広い講堂には、淡い檜の香りが漂っていた。
壇上ではウルシベが和装姿のまま、ゆったりとした所作で演台に立っている。

「知識や技術だけを教えていても、医師は育ちません。私たちは“心”と“姿勢”を育てる場所でなければなりません」

その声は穏やかで柔らかい。
だが、否応なく聴く者の胸に刺さる響きを持っていた。

目の前の席には、白衣姿の塾生たち。
高校生もいれば、浪人生と思しきスーツや私服の上から白衣を羽織った若者もいる。

皆、真剣にノートを取り、視線を上げては漆部を見つめる。
ゴンドウは後方の見学席から、その光景を眺めていた。

(俺が知ってる“予備校講師”ってのは、もっとこう、教卓で偉そうに寝癖つけた髪撫でながら、参考書のページめくってるような連中だったけどな……)

一人ひとりの顔に、決意と覚悟の色があった。

(……レベルが違う)

ウルシベの声が再び響く。

「医師になるということは、誰かの人生を預かるということです。その覚悟を、皆さんには持ってもらいます」

講堂を出る廊下で、ゴンドウは足を止めた。
掲示板には、卒業生たちの顔写真が並んでいる。

そこには関西、関東、地方国立、私立の有名医学部の名前がズラリとあった。

(全部、この塾の卒業生……?)

驚愕するゴンドウの背後から、柔らかな足音。

「驚かれましたか?」

振り向くと、そこにはウルシベが微笑んで立っていた。

「いや……すごい数ですね……。こんな塾、見たことがない……」

ウルシベは穏やかに頷いた。

「当塾は、知識を教えるだけの場所ではありませんから」

そう言うと、廊下を歩きながら続ける。

「ところで、教材を売りに来られたのですよね?」

ゴンドウの喉が鳴った。

「え……あ、はい……いや、でも……」

言葉が続かない。

ウルシベは立ち止まり、ゆっくりと振り返った。

「申し訳ありません。当塾には、今は不要でしょう」

その声に、棘はなかった。
ただ、完全に“終わった”ことを告げる響きだけがあった。

ゴンドウは俯き、小さく笑った。

(……わかってますよ。あんたらに、俺みたいなのが売れるわけねぇ……)

そのまま無言で玄関まで歩き、漆黒に光るレクサスLSハイブリッドの前で足を止めた。
運転席には斑鳩塾のスタッフが静かに待機している。
ウルシベが後部座席のドアを開け、軽く手を添えた。

「どうぞ」

ゴンドウは一瞬ためらい、そして後部座席に腰を沈めた。
ドアが閉まる直前、ウルシベは深々と頭を下げる。
その姿を最後に見たゴンドウは、走り出したレクサスの窓越しに、斑鳩塾の門を振り返った。

(完敗、だな……)

そのタイミングで、もう一台の黒塗りの車が塾へと入っていった。
日の光を受けて鈍く光る、センチュリー。

助手席から降り立った初老の男は、胸元に小さな議員バッジを光らせていた。

(また偉いのが来てんだな……)

ゴンドウはレクサスの窓越しにぼんやりとその光景を眺めていた。

斑鳩塾・応接室。

窓の外には、法隆寺の五重塔が夕陽を浴びて静かに佇んでいる。
その景色を背に、ウルシベは和装の襟を正し、深々と頭を下げた。

「わざわざお越しいただき、ありがとうございます」

向かいに座るのは、落ち着いたスーツ姿の初老の男。
議員バッジが静かに光っている。
背後には、秘書が二人控えていた。

「いやいや、こちらこそ。来月の地域医療推進法案の件、君のところの卒業生が一人、厚労省に入ったと聞いたよ」

ウルシベは静かに微笑んだ。

「おかげさまで」

「今後とも、彼らの活躍を期待している。それにしても、例の件は進んでいるのか?」

ウルシベは茶器を手に取り、湯のみを差し出した。

「順調です。来年以降も、地域枠を通じた優秀な人材を、各大学に供給できるでしょう」

議員は目を細め、茶を啜る。

「…医師不足対策は、わが党の重要政策だからな。君のような教育者がいてくれると助かるよ」

ウルシベは一礼し、声を潜めた。

「もちろん、こちらとしても。大学、医師会、政界──全てにとってウィン・ウィン・ウィンの構造です」

議員は笑みを漏らし、立ち上がった。

「では、また近いうちに」
「はい」

応接室のドアが閉まると、ウルシベは背筋を伸ばしたまま微動だにせず、議員一行が車で去るまでの音をじっと聞いていた。

その背後から、若い秘書が遠慮がちに声をかける。

「館長……ここのところ、お客様が続きますね」

「……そうかもしれんな」

「ところで……先ほどの、東京から来られた教材セールスの方。あれだけの接待をする必要がありましたか?」

ウルシベは振り返り、薄く笑った。

「必要ないよ」

「え?」

「だがな……」

ウルシベはゆっくりと、木の机に指を置き、その木目を撫でるように撫でた。

「……ハエが百匹たかってきたら、一匹ずつ追い払うのは骨が折れる。だが、一匹を骨抜きにして“ここは毒だ”と吹聴させれば──残りの九十九匹は寄ってこなくなる」

秘書は小さく息を呑む。

「拡声器、ですか」
「そうだ」

ウルシベの目が細く笑った。

「彼は帰ったらこう言うだろう。『斑鳩塾には隙がない。あそこはすごすぎる』そうすればいい」

その声音には、氷のように冷たい理性と、決して表に出すことのない本心の色があった。

東京、新宿の場末。
スナック「うらがわ」。

カウンター席でゴンドウは、ちくわぶの入ったおでんを箸でつつきながら、場末の焼酎をちびちび舐めていた。
テレビではニュースキャスターが政局を報じている。

「いやぁ……あそこは、すごい塾だったなぁ……」

彼の声は、誰に向けるでもなく、ただ薄暗い店内のテレビから流れるテレビの音に紛れて消えていった。

ふと、カウンターに置いたスマホが光る。

教材会社の営業仲間からだ。

「どうだった? 例のイカルガ。売れそうか?」

ゴンドウは苦笑いを浮かべながら、短く返信した。

「無理だ。あそこは別世界だよ」

その一言が、やがて関東の教育業界にじわじわと広まっていくことになる。

斑鳩塾には隙がない、と。

ゴンドウはグラスを傾けた。
氷がカランと鳴る音が、妙に侘しく響いた。

(ま、オレはオレで、売れるとこに売るだけさ……)

その呟きは、誰にも届くことなく、薄暗い店内に溶けていった。

-完-