第9話からのつづき
ゴールデン街の小さなバーに、妙な静けさがあった。
常連たちが酒を傾ける中、ただひとり、重い空気をまとって焼酎を飲んでいる男がいた。
──島田タクミ。
“名誉総長”と呼ばれた男である。
だが今、誰もそう呼ぶ者はいなかった。
前週の『週刊文潮』の発売から、すべてが変わった。
経歴詐称、業務上横領、個人情報売買、女子大生との関係、そして──おでん芸。
SNSでは毎晩「#俺は何も悪くない」の大喜利合戦が繰り広げられ、TikTokには「おでんですREMIX」や「ケンブリッジ総長メドレー」などの動画が乱立。
“おもしろおじさん”として完全にネタ化されていた。
「ケンブリッジ主席とか言ってたの、マジなんだったの?(笑)」
「プレミアムおでんってなにwww」
「でも一周回って好き」
──かつては女子高生に“心理学(メンタリスト)の眼差し”で崇拝された男が、今ではネットで“都市伝説級のキャラ”として生ぬるく愛されていた。
一方、メディカルデラックスでは、タクミが消えて以降も混乱が続いていた。
塾の入口には「島田名誉総長は既に退職しております」という張り紙が出され、社長・カトウと部長のエゾエは「説明会」「返金交渉」「顧客対応」に追われていた。
──タクミは“切り捨てられた”のだ。
ゴールデン街のバーの隅、カウンターに置かれたスマホが震える。
通知は1件のメールだった。
件名:【ハルカちゃんねる】登録者数10万人突破のお知らせ
その瞬間、タクミは、酒のグラスを握ったまま、ひとり呟いた。
「……は? なんであの子が……」
彼の手元には、名刺の写メが映し出されていた。
《島田巧 メディカルデラックス 名誉総長》
「……あれ、使われたのか」
一気に酒をあおり、顔をしかめた。
「ちくしょう……全部、俺が与えたネタじゃねぇか」
その怒りも、どこか空虚だった。
翌日。
大手テレビ局の朝の情報番組では、芸能リポーターがこう報じていた。
「名誉総長を名乗っていた島田氏ですが、実は“ケンブリッジ大学医学部”を卒業していないんじゃないかという指摘がありまして……(笑)」
スタジオは失笑に包まれ、コメンテーターが続けた。
「でも、これ笑い話じゃ済まないですよね。未成年との関係もあったわけですし……」
午後。
タクミは、ひとりで新宿中央公園のベンチに座っていた。
前は、こういう時間でもスマホが鳴りっぱなしだった。
女子大生から、保護者から、営業スタッフから──絶え間なく「島田先生!」と呼ばれていた。
だが今は、通知もない。誰からも呼ばれない。
プレミアムおでんを差し出す相手もいない。
ふと、公園のベンチの隣に座っていた小学生が、母親にこう言った。
「ねぇ、“おでんのおじさん”って、ほんとにいたの?」
タクミは、息を呑んだ。
母親は笑いながら答えた。
「都市伝説よ。ホラ吹きの、ちょっと変わった人だったんだって」
タクミはうつむき、ゆっくり立ち上がった。
西日がその背を照らしていた。
もう、どこにも居場所はない。
だが、彼はまだ“名誉総長”の名刺を手放せずにいた。
「次は、どこで使うかね……」
そう呟く声に、誰も耳を貸す者はいなかった。
第11話へつづく