ベイカー・コンサルティング・ファームに入って3年目。
竹内大軌(たけうちだいき)は、業務にもチーム運営にも、ある種の“慣れ”を感じはじめていた。
業界用語、パワポの構成、上司の癖、パートナーの気分、クライアントが求める「正解のフォーマット」。
すべてが頭に入っていた。いや、体に染み付いていた。
午前8時、オフィスのホットデスクでパソコンを立ち上げる。
Slackに届いた未読のメッセージが20件以上。
メールには、深夜2時にクライアントから届いたデータ依頼。
Teamsでは、「今日の午後イチ、戦略パートのドラフト出せます?」というプロマネのコメント。
(できるわけないよ、そんな急に……)
そう思いながらも、ダイキはキーボードを叩いた。
「承知しました。仮説整理しながら構成詰めてみます」
メッセージを送信すると、エナジードリンクを一口。
カフェインの苦さが喉を焼いた。
評価は上々だった。
社内の360度レビューでは、「ロジックが明晰」「若手育成にも丁寧」「クライアントとの関係構築が巧み」――そう評された。
クライアント先でも、「ベイカーの中では若いけど、一番頼りになるね」と言われた。
次の昇進が見えてきていた。
にもかかわらず、ダイキの表情は、以前ほど明るくはなかった。
かつては、仕事が終わったらジムに行き、夕飯を自炊するような余裕もあった。
だが今は、Uber Eatsのアイコンをタップするのが精一杯だった。
唯一のリフレッシュだった読書の習慣も、ぱたりと止まっていた。
最近は、朝から胃が重く、頭がぼんやりする。
夜は布団に入ってもスマホを握りしめ、Slackを確認してからでないと眠れない。
睡眠は3〜4時間。休日は、昼まで泥のように眠っている。
ある日、プロジェクトのキックオフ会議で、ダイキは小さなミスをした。
1枚のスライドに古いデータを使っていた。
内容に致命的な誤りはなかったが、クライアントの財務担当からこう言われた。
「すみません、これ、前期の数字ですよね? もしかして、資料が全体的に古いのでは…?」
会議後、プロジェクトマネージャーがダイキに近づいてきた。
「なあ、最近ちょっとおかしいよ?前の君なら、絶対こんなミスしなかった」
その言葉に、何も言い返せなかった。
ミスを責められたショックよりも、“前の自分”と今の自分が違うことを自覚させられた”ことが、ダイキには堪えた。
(疲れてるだけだ。寝れば戻る)
そう思っていた。しかし、寝ても戻らなかった。
携帯には、大学時代の友人たちのグループLINEがたまに通知を送ってくる。
「今度、伊豆にサウナ旅行行かない?」
「◯◯が結婚するらしいぞ!」
ダイキは既読をつけるだけで、何も返せなかった。
彼女もいなかった。職場の同僚とは業務連絡だけ。誰かと真面目な雑談をする余裕もない。
誰にも、弱音を吐けなかった。
唯一、話し相手といえば、週1回のオンライン英会話の講師だった。
「How was your day, Daiki?」
「Ah… busy as usual. Lots of meetings.」
「Sounds tough. Don’t forget to take care of yourself!」
画面越しの講師の笑顔が、どこか遠くに感じられた。
プロジェクトの進行は加速する一方だった。
ダイキの所属していたチームは、次々と案件を受注していた。
人手が足りない。
残業は当然、休日出勤も常態化。
Slackには「土曜だけど、これだけ対応お願い」と、淡々とした指示が届く。
誰も悪気はない。ただ、皆が同じ速度で壊れかけているだけだった。
気づけば、オフィスのトイレで長時間ぼーっと座ることが増えた。
外の景色を見ても、心が動かない。
“成長”という言葉が、乾いた砂のように耳を通り過ぎていく。
第3話へつづく