第6話:スマートと泥のあいだ

応接室の空気は、会話が進むにつれて、少しずつ「仕事の説明」から「思想の対話」に変わりつつあった。

エゾエ慎太郎は、言葉を選ぶように一呼吸置き、柔らかく語り出した。

「竹内さん。……私は、あなたのような方が“教育に関心を持った”という事実に、むしろ希望を感じています」

ダイキは一瞬、意外そうに目を見開いた。
「えっ……ありがとうございます」

「ええ。あなたは優秀です。受け答えにも無駄がなく、思考の構造がクリアで、話していて気持ちがいい。おそらく、入社すればすぐに成果も出すでしょう」

一拍、沈黙が落ちた。
ダイキは、その続きを待つように、無意識に背筋を正していた。

「けれど――そのうえで、ひとつお伝えしたいのです。“予備校の担任”という職は、あなたが今まで触れてきた仕事とは、似て非なるものだということを」

エゾエは続ける。

「先ほど、“成果が数字で見える教育に関心がある”とおっしゃいましたね?」

「はい。医学部受験は、極めて明確なゴールがあると認識しています」

「その通りです。合格・不合格、偏差値、志望校。この業界ほど“結果が見える”世界はない。でも、数字だけで語れるのは、全体のうち半分です」

ダイキは少し眉をひそめた。
エゾエは続けた。

「残りの半分は、“感情”と“信頼”です。たとえば、成績は上がっているのに“本人が落ち込み続ける”ことがある。あるいは、“親の不安”がすべての判断を狂わせることもある。我々は、“合理性では測れない揺らぎ”と毎日向き合っています。むしろ、そこからしか始まらないと言ってもいいくらいです」

ダイキは分かったようで分からない当惑した表情を浮かべている。

それの表情を見てエゾエは具体例を語り始める。

「こんなケースがありました」

エゾエは、ふと遠くを見るようにして語り出す。

「ある生徒が、模試で偏差値72を取りました。志望校の合格圏内です。我々は当然、親御さんに報告しました。するとその夜、母親から電話が来たんです」

“うちの子、最近よく笑うようになったんです。でも……それが逆に怖いんです。なぜかって?合格に執着しなくなったように見えるから。”

「……言葉にならない不安ですよね。論理的に見れば、合格に近づいている。けれど、親の目には『気が抜けた』ように映る。このとき我々がすべきは、数字を示すことではありません。“この笑顔の意味”を、親と一緒に解釈しなおすことなんです」

エゾエの目が、静かにダイキを見つめる。

「あなたのような方が、“論理を越える混沌”の中に入っていったとき、戸惑うのではないかと懸念しています。優秀であればあるほど、“結論”を探そうとする。だが、教育の現場では“結論が出ないまま、寄り添い続ける”ことが、最も重要なのです」

ダイキは、初めて完全に言葉を失った。

自分の中の「成功体験」や「構造的理解」が、この場においては、逆に“鈍さ”として扱われているような、そんな奇妙な感覚。

「あなたは、自己完結型なんです。困難が来ても、自分で整理し、自分の中に解決モデルを築き、それを実行できる。それは素晴らしい能力です。むしろ、ビジネスの世界では、あなたのような人が組織を引っ張る。しかし、予備校の担任には、もう一つの能力が求められるんです」

エゾエは、テーブルに置かれた水のグラスをそっと指で押した。
水が、静かに波紋を描く。

「揺れている水面に、手を突っ込まず、ただ傍らで見ていられる力。“解決しないまま、一緒に揺れる”力です」

ダイキは沈黙したまま考える。

(……それは、今までの俺が最も避けてきたことだった)

ベイカーにいたとき、自分の評価は「構造化力」と「即応力」だった。
曖昧さを分解し、次の一手を示すこと。それが正解とされる世界だった。
だが、ここでは――
(それをやったら、生徒は壊れるのかもしれない)
ダイキは無言で、グラスの水面を見つめていた。

エゾエも、沈黙を破ろうとしなかった。

第7話へつづく