応接室に、ふたたび静けさが戻っていた。
冷房の微かな風音と、ビルの外を走る救急車のサイレンが、遠く微かに聞こえてくる。
ダイキは沈黙していた。
水の入ったグラスを前にしながら、先ほどのエゾエの言葉が、まだ心の中で波紋を広げていた。
“解決しないまま、一緒に揺れる力”
それは、彼がずっと避けてきた領域だった。
ベイカー時代、迷うことに意味はなかった。
速く、正確に、結論を出すこと。それが仕事だった。
そして、誇りでもあった。
エゾエは、背筋を軽く伸ばすと、丁寧に口を開いた。
「……お時間をいただきありがとうございました、竹内さん」
「いえ、こちらこそ。大変貴重なお話を聞かせていただきました」
「いえいえ。これは私の“職業病”のようなものです。面接に来られる方には、ついこの仕事の、外からは見えにくい部分”を語りたくなってしまうんですよ。申し訳ない」
そう言って、エゾエは笑った。
だがその笑みは、どこか哀しみを含んだものだった。
「……最後に、ひとつだけ。私なりの結論を、お伝えしてもよろしいでしょうか」
ダイキは、少し姿勢を正した。
「はい。お願いします」
エゾエは、数秒、視線をテーブルの一点に落としてから、顔を上げた。
「率直に申し上げます。――今回は、見送らせていただきたいと思います」
ダイキは、小さく息を呑んだ。
だが、ショックというよりも、胸の奥に納得に近い感情が浮かびかけている自分に、気づいた。
エゾエは続けた。
「繰り返しになりますが、あなたは本当に優秀な方です。論理力、共感性、観察力、どれも一級品だと思います。しかし……おそらく、あなたはこの仕事に“答え”を求めてしまうでしょう。誰かの悩みに対して、必ず解決策を出そうとするはずです。生徒や保護者は、その瞬間は感謝するかもしれない。でも、そのスピード感が時として、人の“心の成熟”を妨げてしまうことがあるのです」
「……」
「私たちが相手にしているのは、“思考の整理ができない年齢層”です。彼らの問題は、言語化できない不安であり、感情のもつれであり、時には理由すら存在しない絶望です。そこに、最短ルートの仮説をぶつけてしまえば……相手は“わかったふり”で納得してしまう。だがそれは、真の解決にはならない」
ダイキは、ふと大学時代に文学の教授が「真の頭の良い人間とは、解決を求めず考え続ける知の体力を持つ者だ」という言葉を思い出した。
その時は、その教授が何を言っているのかさっぱり分からなかった。
文学を専攻する人間特有のレトリックだとすら思った。
しかしエゾエの話を聞いているうちに、その教授が言わんとしていたことがおぼろげながら分かるような気がしてきた。
「教育とは、“わかったふり”を何度もくり返す現場です。その“ふり”を否定せず、咎めず、ただ横に座って『それでも君は進んでるよ』と伝えられる人間が、担任です」
エゾエの声は静かだった。
だが、その静けさは、何百人という生徒と親を見送ってきた人間だけが持つ、重みだった。
「あなたは……“もっと大きな場所”で働くべき人だと思います。教育は、いろいろな人間を受け入れます。けれど、担任という職種は、どうしても“揺れることに耐えられる人間”にしか任せられないのです」
ダイキは、初めて深く、丁寧に頭を下げた。
「……ありがとうございました。すべてが、自分にとって“想像外”の時間でした。正直に言います。今日この場に来るまでは、教育という仕事は、もっとシンプルだと思っていました。論理で導ける世界だと、勝手に思っていました」
顔を上げたダイキの目は、わずかに潤んでいた。
「でも、今日の話で、それが傲慢だったと気づきました。たぶん、僕は“寄り添うふり”をするのが上手いだけで、本当の意味で“揺れること”から逃げてきたんだと思います」
エゾエは、ゆっくり頷いた。
「……また、どこかでお会いしましょう。あなたのような方が、この業界に興味を持ってくださったこと。それ自体に、私は意味を感じています」
「はい。僕も、この時間に意味があったと思いたいです」
応接室を出ると、ちょうど午後の陽光が、西新宿の高層ビル群をまっすぐ照らしていた。
ダイキは一人、駅へと向かう人波の中に歩き出した。
手には、メディカルデラックスの封筒――面接案内の残骸。
(俺には、まだ“揺れる力”がないんだな)
だが、その胸の中には、かすかな温かさが残っていた。
まるで、“自分という人間を丁寧に否定された”ことが、逆に、新しい何かをくれるような気がしていた。
第8話へつづく