第11話からのつづき
──冬のゴールデン街。
ネオンもまばらな細い路地裏。
昭和が取り残されたようなスナックに、小さな明かりが灯っていた。
店名は「スナック・ルミ子」。
一見して普通の場末の店。
だがそのママは、かつてテレビで活躍した元・芸能キャスターだったという噂もある。
「昔はね、私もゴールデンで番組持ってたのよ。週に4本、スポンサーも5社。……遠い昔のことねぇ」
カウンターの奥で語るその姿には、どこか“残り香”のような華やかさがあった。
その店の隅に、黒シャツの男がひとり──
島田タクミである。
「……名誉総長だったんだよ、オレは」
「医学部専門予備校でな、名刺には“ケンブリッジ主席”って……え?知らない?」
ママは笑った。
「そうねぇ。私も昔は“伝説の女子アナ”って呼ばれたわ。でも今じゃ、“ちょっと料理のうまいオバちゃん”よ」
「でもね、それでいいの。過去は過去。今がちょっとでも幸せなら、ね?」
そう言って、ママがカウンター越しに何かを差し出した。
「ねえ、うちさ、冬限定で“おでん”始めたの。試しに食べてみてよ」
湯気の立ちのぼる小鍋。 大根、こんにゃく、ちくわ、卵──そして、ちくわぶ。
タクミは眉をひそめる。
「……ちくわぶなんて、関東の食いもんだろ。西の人間は、こんなの食えたもんじゃ──」
言いかけて、箸を止めた。
湯気の向こうで、ママがにこりと笑っていた。
「ほら。意外と、沁みるわよ。年を取るとね」
タクミは、黙ってちくわぶを口に運んだ。
柔らかく、とろけるような食感。
濃い出汁が、舌の奥に染みわたる。
「……こんなもんが、こんなに沁みるとはな……」
誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。
ママが、焼酎のお湯割りを継ぎ足しながら言う。
「あなたも、きっといろいろあったのねぇ」
「……ああ、“名誉総長”だった」
「ふふ……じゃあ今は、“おでんの客”ね」
カウンターの奥。
テレビでは若手芸人がバズったネタを披露している。
だが、タクミは画面も見ずに、黙ってちくわぶを噛み続けた。
──その夜。
「おでんです!」という決め台詞も、「わりと金なら持ってるタイプです!」の自慢も、タクミの口からは出てこなかった。
ただ、湯気の立ちのぼる鍋を眺めながら、彼はひとり、静かにちくわぶを頬張っていた。
あの頃、誰かに笑ってほしくて繰り返した“おでんギャグ”。
いまはもう、誰にも見せることはない。
だが──
ちくわぶの味だけは、確かに彼の臓腑に染みていた。
– 完 –
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