第1話:平塚ブルース

本名は、権藤龍太郎(ごんどう・りゅうたろう)。

初対面でフルネームを名乗ると、たいていこう言われる。
「なんか、政治家かフィクサーみたいな名前ですね」

それもそのはず、名字は画数の多い「権藤」、名前も「龍太郎」という仰々しさ。
何やら威圧感が漂う名前だが──
本人を目の前にすると、十中八九の人間がその落差に肩透かしを食らう。

痩せぎすで猫背気味、おまけに、いつもワイシャツの袖が少し長い。
声はこもりがちで溜息混じりにも聞こえなくもない。
人と目を合わせるのが苦手なのに、相手に合わせようと無理に作り笑いをすると、かえって人が離れていく。

ただの、地味で平凡な中年男である。

そんなゴンドウが生まれたのは、神奈川県平塚市。
海と工場と、ちょっとした商店街に囲まれた町で、昭和40年代の終わりに育った。

父は家電メーカーの工場勤務、母はパート勤め。
兄弟はいない。
家庭は穏やかで、淡々とした日々が流れていた。

小学校時代は、目立たない子どもだった。
先生に怒られもせず、褒められもせず。通知表の成績欄にはいつも「普通」の文字。

「……ゴンドウくんって、いたよね?」
そんなふうにクラスメイトに思い出されるタイプである。

中学では吹奏楽部に入る。担当はパーカッション。
理由は簡単。楽器の持ち運びが少なくてすむから。
演奏が上手いわけでも、リズム感があるわけでもない。
ただ、黙々と、無難に叩いていた。

高校でも特に目立つことはなかったが、文化祭でクラス演劇の裏方に回ったときのこと、何人かにこう言われた。
「ゴンドウ、意外と気が利くよな」
その一言が、妙にうれしかった。

そうか、俺には、そういう立ち回りが向いてるのかもな。

高校時代は、薬師丸ひろ子に惹かれた。
角川映画の『野生の証明』、東宝映画の『翔んだカップル』。

彼女の演じる“控えめだけど芯のある少女像”に、どこか自分を重ねていた。

「可愛すぎず、地味すぎず、でも真ん中じゃない感じがいいんだよな……」

だが、周囲の男子たちは松田聖子や中森明菜の話で盛り上がっていた。

「薬師丸って、ちょっと地味じゃね?」

そう言われて、ゴンドウは「まあね」とだけ答えた。
心の中で「それがいいんだよ」とつぶやきながら──。

大学進学。
偏差値は40そこそこの経済学部。

入学式の日、年上の女性に声をかけられる。

「君、なんだかかわいいね。うちに入らない? 会計サークルだけど、硬いとこじゃないから。ボウリングとかもやってるし」

なんとなく流されて入ったそのサークルは、「会計研究会」という地味なサークルだった。

男女半々くらい。

先輩に誘われた手前、辞めるタイミングもなく、そのまま4年間在籍した。

特別な恋愛もない。学園祭でチケットを渡した子は、後日「あれって友達としてだよね?」と念を押してきた。

まあ、俺なんかに告白されたら困るよな。
そう言って、また「へへっ」と笑った。

大学4年の進路希望調査。
将来の夢の欄に、彼はこう書いた。

「事務」

「……漠然としてるなぁ」と教授に言われたが、彼にはそれ以外、特に書くことがなかった。

「営業は、声がデカいやつがやるもんだ。俺は、影で書類書いてる方が性に合ってる」
そう結論づけたゴンドウは、就職活動においても堅実そのものだった。

大手旅行代理店のNo.6の会社。
ベスト3やベスト5には入らない微妙さ。
安定感があり、華やかさはないが潰れそうでもない。

「ちょうど、いい」

──それが、ゴンドウ龍太郎という人間の、“人生の選び方”だった。
だが、その穏やかで、安定した人生が、やがて、静かに歪んでいく。