第2話からのつづき
昭和から平成に時代が変わる直前、権藤龍太郎(ゴンドウリュウタロウ)は、旅行代理店に就職した。
業界No.6の中堅企業。
華やかさこそないが、堅実で、倒産することはなさそうな会社だった。
配属先は、本社の営業企画部。
──営業ではなく、事務方。
希望通りといえば希望通りだが、華やかなプレゼンや大きな案件とは無縁の、カタログの構成、各地の観光地への見積もり依頼、時には航空会社や鉄道会社と条件交渉をするような、「現場には出ない段取り係」だった。
朝9時。地下鉄を乗り継ぎ、本社ビルの6階へ。
灰色のデスクに座り、愛飲しているUCCのミルクコーヒーをぐいっと一口あおる。
「……さてと」
ゴンドウは机の上の資料をめくり、黙々と仕事をはじめる。
最初の3年は、ひたすら忙しかった。
修学旅行のパンフレットを作り、温泉旅館の団体料金を交渉し、団体旅行のバス会社との調整に追われる。
華やかなビジュアルのパンフレット。
そこに記されているホテル名や価格、食事条件などの文字や数字を何十回と修正するのが、ゴンドウの仕事だった。
だが、会社の上司たちは──
「旅行屋はプレゼンしてナンボだ」
「結果を出すのは現場だ」
そういう文化だった。
営業マンは、キャリーバッグにサンプルを詰め、企業に出向いて契約を取ってくる。
彼らが社内に戻ってくると、拍手とともに「お疲れ様でーす!」という歓声があがる。
ゴンドウもデスクに座ったまま、その空気を壊さぬよう苦笑いを浮かべながら追従して手を叩いた。
(今回の契約の企画を立てたのは俺、パンフレットを作ったのも俺、俺のやってること、誰か見てるのかな)
ふと、そんなことを思った。
5年目。
部署内の人事異動が発表された。
同期は営業へ。後輩の一人は「花形」の新規企画の開発課に引き抜かれた。
ゴンドウは、異動なし。
課長からの評価欄には、こう記されていた。
──安定感あり。だが、自発性に欠ける
その言葉を見て、ゴンドウは思った。
(……俺、そんなに期待されてたんだっけ?)
誰にも文句を言われず、そこそこの給料をもらい、終業後に駅前の立ち食い蕎麦をすする。
家に帰れば、東芝製の冷蔵庫に冷えたビールが一本。
──何も不満はない。
──ただ、何も変わらないだけだ。
ある夜、会社帰りに立ち寄った新宿駅の構内。
若いカップルが、旅行雑誌を眺めていた。
「これ、いいね〜!沖縄の離島行きたいなぁ」
「予約しようよ。あ、でも高いなぁ」
「でも、記念になるしね」
その笑顔を見て、ふと、こう思った。
(……俺、この業界に入って、誰かを笑顔にできてるのかな)
自分が作った企画書や、交渉した価格が、どこかで誰かの「人生のワンシーン」に関わっている──
そう信じたくて、ゴンドウは灰色のデスクに向かう日々だった。
気づけば30歳になっていた。
学生時代の仲間は、転職を重ね、起業した者もいた。
結婚して子どもがいる同期もいれば、海外に赴任した先輩もいた。
ゴンドウは、まだ本社の片隅で、「誰かの背中」を見つめながら仕事をしていた。
──彼はまだ「主役」ではなかった。
だが、まだ崩れてもいなかった。
第4話へつづく