第4話:名簿屋の地味な夜明け

第3話からのつづき

「……あの、企画案、これで出しておきます」

コピー用紙を3枚重ねて、上司の机に置く。

旅行代理店での5年目。
配属されたのは、国内パッケージツアーのプランニング部門だった。

地味な業務ではあったが、文句はなかった。
ホテルと交渉し、交通機関と調整し、パンフレットの文言を考える。
デスクで静かに作業し、電話と書類を相手にする毎日。

──だが、会社は変わっていった。

バブルの影が、徐々に色濃くなる昭和60年代後半。
旅行代理店の世界にも、“華やかさ”と“数字”が求められ始めていた。

「もっと目立つ企画を!」

「今期の売上目標は2倍!」

「取引先を飲みに誘って交渉しろ!」

社内の空気が騒がしくなる中、ゴンドウは少しずつ、疲弊していった。

「俺……営業タイプじゃないんだけどな」

ある朝、上司が言った。

「ゴンドウくん、君は真面目だけどね、ちょっと地味すぎるんだよ」

「それに、君のそのニヤ〜っとした笑顔、これなんとかならないか」

──それが、退職を決意した決定打だった。

次の職場を探す中、ハローワークで見つけたのが、教材制作会社「桜教育サービス株式会社」だった。

(教材の校正と、全国の塾への営業サポート……? なんか……落ち着いてて、いいかもな)

そう思った。

応募書類の「志望動機」欄には、たった一言。

「縁の下の力持ちになりたい」

つまり「静かな場所で、役に立ちたい」。

これが偽らざるゴンドウの本音だった。

こうしてゴンドウは、教材屋になった。

桜教育サービス株式会社──
水道橋の雑居ビルにひっそりと事務所を構える、小さな教材会社。

中高生向けのオリジナル教材を制作し、私立高校や塾に卸すのが主な業務だった。

全国展開こそしていないが、固定客は多い。
──まさに、ゴンドウ向きの職場だった。

FAXで届いた原稿の誤植を赤ペンで直し、ホチキスで留めて回覧。
印刷所との納期調整、封筒詰め、資料発送。

「ここ、派手な人がいなくて、居心地いいな……」

そんな空気の中で、ゴンドウは少しずつ、社内でも重宝される存在になっていく。

だが──

彼が「外の顔」を持ち始めたのは、その年の夏だった。

営業補佐として、いくつかの予備校と取引先の先生と接点を持つようになる。

とくに、中小規模の塾の担当たちは、ゴンドウに親しみやすさを感じていた。

「最近どうですか? 生徒集まってます?」

「いや〜、全然ダメ。名簿がなくて困ってんだよ。どこも情報が手に入らなくてさ〜」

「……名簿、ですか?」

「そう。中3とか高3とかの進学予定の子のな。どっかに落ちてねぇかな〜」

──その言葉が、ゴンドウの胸に刺さった。

気づけば、数ヶ月後。
ゴンドウの四角いリュックには、いくつかの「名簿のコピー」が入るようになっていた。

古い知人からの紹介。
昔の職場のツテ。
居酒屋で知り合った関係者。

名簿は、紙で受け取る。
それを「次の塾」に紹介する。

謝礼は封筒で、手渡し。
最初は「交通費」と言われていたそれが、いつしか──「それ」が商売になっていた。

「……悪いことでは、ないよな」
そう自分に言い聞かせながら、今夜もいつもの店へ向かう。

その店の名は、スナック「うらがわ」。

新宿の外れ、古びた雑居ビルの一階。
看板には、達筆で書かれた店名と、筆で描いた“おでん”の湯気。

「“表”でうまくいかない奴が、“裏側”でちびちび飲む場所」
──それが由来らしい。

ゴンドウは、ここの常連だった。

「ママ、ちくわぶと、厚揚げ」

「今日も地味ねぇ、ゴンドウちゃん」

店主のママは、元・女優だという。

派手な口紅と、年季の入った化粧。
しかし妙に気配りがきく、いい女だった。

「名簿、今日は売れたの?」

「……まあ、ぼちぼち」

「ふふ。地味に、頑張ってるじゃない」

おでんの湯気の向こうで、ゴンドウは笑う。

──派手じゃなくていい。勝たなくていい。

だけど俺は、今日も「誰かの裏側」で、生きている。

それが、“名簿屋ゴンドウ”の、地味な夜明けだった。

第5話へつづく